みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 42 寒河江ダム [旅行]

最終目的地に向かう途中で見かけたので立ち寄りました。

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寒河江ダム(さがえダム)は山形県西村山郡西川町、一級河川・最上川水系寒河江川に建設されたダムである。
国土交通省東北地方整備局が管理する国土交通省直轄ダムで、高さ112メートルのロックフィルダム。

寒河江川及び最上川の治水、山形市など山形県村山地方への利水と出力7万5,000キロワットの水力発電を目的とした特定多目的ダムで、山形県最大のダムだそうです。
白川ダムと共に総合的な管理が行われている。ダムによって形成された人造湖は月山より名を採って月山湖(がっさんこ)と命名され、西川町の推薦により財団法人ダム水源地環境整備センターが選定するダム湖百選に選ばれている。

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というか、このダムには112という数字に縁があるようです。

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その1 ダムの高さが112メートル。
その2 ダムによって移転した家屋が112戸。
その3 ダムの完成式典日が1990年112日、しかも1120分に開始。
その4 ダムの傍を通るのは国道112号。
その5 月山湖大噴水の高さが112メートル。

まさに112のダムですね。



みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 41 岩根沢三神社 [寺社仏閣]

ここは個人的に印象に残っている寺院さんでした。
何故って・・・・

この社殿の名前が長い。
【月山神社出羽神社湯殿山神社摂社月山出羽湯殿山三神社社殿】
どのような社殿かご紹介します。

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岩根沢三神社の由来は、嘉録二年(1226年)大和の国より、行脚に来ていた僧が岩根沢に投宿中発心し一字を建立、役の行者の威力も加わり月山に道を切り開きその後、参詣の行者が増加し、さらに嘉慶元年(1387年)大寺を建立しその後、上野東叡山輪王寺直轄末寺として寺号を日月寺と称し天台宗派属し、住職は代々東叡山より任ぜられた。その後寛文七年(1667年)延享元年(1744年)と天保十二年(1841年)に再建されました。しかし、いかに岩根沢三神社といえども度重なる火災で、経済面では決して豊かではなく、玄関の造営は、十七年も後の安政五年に行っています。
又、台所にある大賄部屋の八角柱には等身大の大国・恵比寿の木像が安置されています。
明治二年の神仏分離令時に日月寺号返上、平成十二年国重要文化財に指定されました。

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しかし、ここから先が僕の初体験でした。

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何と、雪避けよ板でしょうね、社殿を囲むように貼り尽くされていたので、社殿全体の写真は撮れませんでした。

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まぁ、逆に拝観料を取られなかったので良かったとしましょう!! 
そして次に向かったのが今回の最終目的地になります。
もう少しだけ続きますがお付き合い下さい(^^)



みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 40 出羽三山 湯殿山にて [旅行]

次に向かったのは標高1984mの所に位置する三山奥宮【湯殿山】
ここも最大の目的地のひとつだったのですが・・・

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何と、雪解けが遅れていて通行不可[がく~(落胆した顔)]
もうビックリでした。

仕方なく次の目的地に向かいましたが、ショックでした。
だから、今回は湯殿山がどのような場所なのか詳細を載せます。

出羽三山-羽黒山(標高414M)月山(標高1984M)湯殿山(標高1504M)-は「出羽国」を東西に分ける出羽丘陵の主要部を占める山岳である。
 太古の大昔は火山爆発を繰り返す“怒れる山”であった。
 _____時が経ち、再び静寂を取り戻した頃、山には草が生え、樹木が生い茂り小鳥や獣がもどってきた。
 その時、麓の里人たちはそこに深い不思議な“神秘”を感じた。
「あの山こそ、我が父母や祖先の霊魂が宿るお山だ・・・」
「我らの生命の糧を司る山の神、海の神が鎮まっているお山に違いない・・・」
 _____それから更に時を刻んだ推古天皇元年(593年)、遠く奈良の都からはるばる日本海の荒波を乗り越えて一人の皇子がおいでになられた。
 第三十二代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子、その人である。
 イツハの里・由良(ゆら)の八乙女浦(やおとめうら)に迎えられ、三本足の霊烏に導かれて、道なき径をかき分けたどりついたのが羽黒山の阿古谷(あこや)という、昼なお暗い秘所____。
 蜂子皇子はそこで、来る日も来る日も難行苦行の御修行を積まれ、ついに羽黒の大神・イツハの里の国魂「伊氏波神(いではのかみ)」の御出現を拝し、さっそく羽黒山頂に「出羽(いでは)神社」を御鎮座奉られた。
 今を去ること、千四百年前の御事である。
 出羽三山神社では、この時を以て「御開山の年」とし、蜂子皇子を「御開祖」と定め、篤く敬仰している。
 やがて、御開祖・蜂子皇子の御修行の道は「羽黒派古修験道(はぐろはこしゅげんどう)」として結実し、千四百年後の今日まで“羽黒山伏”の形をとって、「秋の峰入り(みねいり)」(峰中ぶちゅう)に代表される厳しい修行道が連綿と続いている。
 _____以後、お山の内外を問わず、全国六十六州のうち東三十三ヶ国の民衆はもとより皇室、歴代の武将の篤き崇敬に与り、いつしか本邦屈指の「霊山・霊場」としてその地位を築き、四季を通じ登拝者の絶えることがない。
 そもそも、出羽三山は、祖霊の鎮まる“精霊のお山”、人々の生業を司る「山の神」「田の神」「海の神」の宿る“神々の峰”にして、五穀豊穣、大漁満足、人民息災、万民快楽(けらく)、等々を祈願する“聖地”であった。
 加えて「羽黒派古修験道」の“根本道場”として、「凝死体験(ぎしたけいん)・蘇り(よみがえり)」をはたす山でもある。
 すなわち、羽黒山では現世利益を、月山で死後の体験をして、湯殿山で新しい生命(いのち)をいただいて生まれ変わる、という類いまれな「三関三度(さんかんさんど)の霊山」として栄えてきたお山である。
 出羽三山の信仰世界を語る場合、まず挙げなければならないのは、今日なお「神仏習合」の色彩が色濃く遺されているということであろう。
 古来より出羽三山は、自然崇拝、山岳信仰、など“敬神崇祖”を重視するお山であったが、平安時代初期の「神仏習合」の強い影響を受け、以後、明治初年の「神仏分離」政策の実施の時まで、仏教を中心としたお山の経営がなされてきた。
 今日、出羽三山神社は「神道」を以て奉仕しているが、古くからの祭は道教や陰陽道そして密教を中心とする「修験道」を持って奉仕している。
 まさに、これこそ今日の出羽三山神社の大きな特色といってよい。
 歴史をふり返って見ると、鎌倉時代には羽黒山をして、「八宗兼学の山」と称し、全国各地から修行僧が競って入山し、各宗を実践修得していった。
 何故に「八宗兼学の山」であり、諸々の宗教・宗派がこれ程複雑に習合したのか_____。
 それこそ、出羽三山の大神、神々、そして御開祖・蜂子皇子の“御心(みこころ)”が成したものであろう。
 信ずる者来たれり、出羽三山の大神は何人にも等しく御神徳を授ける、偉大にして永久(とわ)に有りがたい神々である、との民衆の“確信”があったからに他ならない。
 人間の苦しみ・悩みは決して一様ではない。多様にして複雑怪奇、一つの“哲理・教義”のみでは決して救うことはできないということを、出羽三山の大神と御開祖・蜂子皇子は見抜いておられたに違いない。
 出羽三山の神々は寛大である_____。
 信仰心は、まず、“信ずること”に始まる。自分の邪念・邪心をむなしくして、「神」を信ずること、それが信仰世界に入る第一歩である。
   敬神崇祖(けいしんすいそ)_____。
 神を敬い、祖先を崇めること、この一語に尽きる。
 出羽三山の神々に仕える者は、千四百年間一貫してこの根本精神を以て大神に御奉仕致し、かつ登拝者・信者の方々に等しく接し、教化に勤めてきた。
 出羽三山神社となった明治以降もお山は繁栄御神威の発揚が図られている。今日では東三十三ヶ国からの信者にとどまらず、全国の津々浦々から、四季を通じて登拝者の絶えることがない。
 そして、最近では、日本はおろか外国からもお山においでになられる方も目立って多くなってきている。
 まさに“国際化”である。これも、太古から綿々と受け継がれてきた山麓の宿坊・羽黒山伏の全国に向けた弛まぬ“布教・教化活動”あるいは、出羽三山神社の御神威の“発揚”があったからに他ならない。
 出羽三山の信仰は、いつの時代にも、親から子へ、子から孫へと伝えられる「親子相伝のお山」として著名であるばかりでなく、成人儀礼として男子十五歳になると、「初山駈け」をしなければならないという風習が各地にあって、今も健在である。
 特に関東方面では古くから、出羽三山に登拝することを「奥参り」と称して重要な“人生儀礼”の一つとして位置づけ、登拝した者は一般の人とは違う存在(神となることを約束された者)として崇められた。
 また、西に位置するお伊勢様を意識するように東に存在する出羽三山を詣でることを「東の奥参り」とも称した。つまり「伊勢参宮」は「陽」、出羽三山を拝することは「陰」と見立て“対”を成すものと信じられ、一生に一度は必ずそれらを成し遂げねばならない、という習慣が根強くあった。
 今日、出羽三山のお山が、
  「日本の原郷・・・・」
  「日本人の心のふる里・・・」
 といわれる所以は、類ない千四百年という歴史だけによるものではなく、“時空”を越えて一貫して顕わされてきた三山の大神の御神威・御神徳、合わせて御開祖・蜂子皇子の“衆生済度(しゅじょうさいと)”の御精神、皇室の御繁栄と民衆の息災を願う御心の「御仁愛」にあることを、私たちは今一度、識るべきであろう。

出羽三山の開祖蜂子皇子上陸の地
 出羽三山の開祖である蜂子皇子が羽黒山へ辿り着くまでのルートについては諸説あるが、その一つに由良の八乙女伝説がある。
崇峻5年(592)の冬、父である第32代崇峻天皇が蘇我馬子(そがのうまこ)によって暗殺された。このまま宮中に居ては皇子である蜂子の身も危ないと、聖徳太子(しょうとくたいし)の勧めにより倉橋の柴垣の宮を逃れ出て越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた。ここに容姿端正な美童八人が海の物を持って洞窟を往来していた。皇子は不思議に思い上陸し、乙女に問おうとしたが皆逃れ隠れてしまった。そこに髭の翁があらわれ、皇子に「この地は伯禽島姫の宮殿であり、この国の大神の海幸の浜である。ここから東の方に大神の鎮座する山がある。早々に尋ねるがよい」とおっしゃられた。そこで皇子はその教えに従い東の方に向かって進まれたが、途中道を失ってしまった。その時、片羽八尺(2m40cm)もある3本足の大烏が飛んできて、皇子を羽黒山の阿久岳へと導いた。これにより、由良の浜を八乙女の浦と称し、皇子を導いた烏にちなんで山を羽黒山と名付けた。
 このように、羽黒神は八乙女の浦の洞窟を母胎として誕生したとされ、しかもこの洞窟は羽黒山本社の宮殿と地下道で結ばれているという言い伝えがある。
*伯禽島姫 ー 竜王の娘である玉依姫命(たまよりひめのみこと=竜宮にあっては伯禽島姫)で、江戸時代は羽黒神とされた。

蜂子皇子【羽黒派古修験道を開いた御開祖】
御開山は千四百年余前の推古天皇元年(593年)、第三十二代崇峻天皇の御子蜂子皇子が、蘇我氏との政争に巻き込まれ、難を逃れるために回路をはるばると北上し、出羽国にお入りになりました。そして三本足の霊烏(れいう)の導くままに羽黒山に登り羽黒権現の御示現を拝し、山頂に祠を創建され、次いで月山、湯殿山を次々と開かれました。その後、皇子の御徳を慕い、加賀白山を開いた泰澄や修験道の祖ともいわれる役ノ行者、真言宗の開祖空海、天台宗の開祖最澄などが来山し修行を積んだと伝えられています。


出羽三山の沿革【悠久の歴史に育まれた限りなく深い信仰】
出羽三山とは、山形県(出羽国)にある月山、羽黒山、湯殿山の三つの山の総称です。
 月山神社は、天照大神の弟神の月読命(つきよみのみこと)を、出羽神社は出羽国の国魂である伊氏波神(いではのかみ)と稲倉魂命(うかのみたのみこと)の二神を、湯殿山神社は大山祗命(おほやまつみのみこと)、大己貴命(おほなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神を祀っています。月山と湯殿山は冬季の参拝が不可能であることから、羽黒山頂に三山の神々を合祭しています。また広大な山内には百八末社といわれる社があって、八百万(やおろず)の神々が祀られています。
 出羽三山は元来、日本古来の自然崇拝の山岳信仰に、仏教・道教・儒教などが習合に成立した「修験道」のお山でした。それ故、明治維新までは仏教の、真言宗、天台宗など多くの宗派によって奉仕され、鎌倉時代には「八宗兼学の山」とも称されました。悠久の歴史の中で幾多の変還を重ねながら、多様にして限りなく深い信仰を形成し、「東三十三ヶ国総鎮護」として、人々の広く篤い信仰に支えられて現在に至っています。

だそうです。

気を取り直して、次の目的地へ。

みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 39 玉川寺 [寺社仏閣]

磐梯朝日国立公園を後にして、次に向かったのが湯殿山。
しかし途中で看板を見つけました。
国の指定名勝【玉川寺】。
この道は二度と通らないかも知れないとなると、行かなきゃ・・・と思い立ち寄りました。

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玉川寺(ぎょくせんじ)は、今から凡そ7百有余年前の鎌倉時代(1251年)に開かれた曹洞宗(禅宗)の寺院です。
この寺を開いた了然法明禅師は、朝鮮高麗国の生まれで中国の径山寺で修行され、日本に渡来し、この地に留まり禅を広めました。大本山永平寺開祖道元禅師の高弟でもありました。

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出羽三山のふもとにある玉川寺は、凡そ七百有余年前の鎌倉時代(1251年)に曹洞宗の開祖道元禅師の高弟だった了然法明禅師によって開山されたと伝えられています。
了然法明禅師は朝鮮高麗の生まれで、中国の径山寺で修行され、日本に渡来し羽黒山に参詣しての帰途、観音堂を拡めて禅刹の基礎を築かれました。

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その後、室町期に至る約二百年間の歴史は審かではないが、享徳二年(1453年)新潟県の村上にある耕雲寺の南英謙宗禅師が、庄内の領主・藤原氏の懇請により玉川寺を再興し、現在に至っているという古刹です。

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御本尊はに霊験あらたかな聖観世音菩薩を祀り、近郷に多くの末寺をもつ曹洞宗寺院では日本でも古い旧蹟であります。荘内平和観音三十三霊第十七番礼所にもなっています。
そして、ここでもっとも有名なのがお庭です。

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玉川寺庭園は1450年代に作庭され、1650年代の改修を経て今に伝えられています。自然の山から流れ落ちる滝を配し、大きな池を中心とした池泉廻遊式蓬莱庭園は石組も鋭く、地方稀に見る名園であります。1987年に国の文化財名勝に指定されました。

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何と最後に新郎新婦さんに出会いました。ここから湯殿山に向かいます。



みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 38 磐梯朝日国立公園 [旅行]

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磐梯朝日国立公園は、福島県、山形県、新潟県の三県にまたがる国立公園で、1950年9月5日に指定を受けたそうです。

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山岳信仰の地として名高い出羽三山から、原始性の高い朝日連峰、飯豊連峰を経て、レクリエーション地として多くの人が訪れる磐梯山、吾妻山、猪苗代湖を抱える我が国で3番目に大きな国立公園です。
登山上級者から初心者まで楽しめる多様な山々と、多彩な湖沼と森が織りなす雄大かつ変化に富んだ美しい景観が魅力です。
磐梯山や猪苗代湖周辺は、首都圏からのアクセスも良いことから多くの人々が訪れており、登山、ハイキング、温泉浴、スキー、舟遊びなど幅広い楽しみ方が可能です。

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次に向かう場所もこの山の何処かの山頂なのですが、そこで大問題が!!
それはまた次回(^^)






みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 37 羽黒山月山羽黒山湯殿山神社 4 [寺社仏閣]

前回の続き。羽黒山三山神社境内。

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地上2階、地下1階総床面積2,179平方メートル入母屋造り銅板一文字段葺、従来の直務所の機能に参拝者の受入施設、神職養成所機能さらに儀式殿をも附設多目的な出羽三山に相応しい立派な参集殿が昭和63年7月2日に見事完工したそうです。

次にご紹介するのが

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【国重要文化財:鐘楼と建治の大鐘】
切妻造りの萱葺き屋根で小さいが豪壮な感じでした。
最上家信の寄進で元和4年再建したそうです。
山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物であり、鐘は建治元年の銘があり古鐘では東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きいものだそうです。
鐘の口径1.68m(5尺5寸5分)、唇の厚み22cm(7寸1分)、また鐘身の高さ2.05m(6尺7寸5分)、笠形の高さ13cm(4寸4分)、龍頭の高さ68cm(2尺2寸3分)あり、総高2.86m(9尺4寸2分)。
上帯の飛雲丈は頗る見事な手法で、よく当代の趣味を発揮し、池の間は、雲中飛行の天人や、池注連華を鋳現しているのは、羽黒の鐘にのみ見る所で、全く希有である。また天人の図は宇治鳳凰堂の藤原時代の鐘に見るほか、絶えてその例を見ないという。この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。
でも僕が撮りたかったのは、その鐘の前にパフォーマンスしている女性(^^)。建物大きさがわかるでしょ!

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【霊祭殿】
出羽三山は往古より祖霊安鎮のお山とされ、深い信仰をあつめており、ご先祖の御霊を供養する風習が現在も盛んに行われている。単層入母屋千鳥破風五間社造りの本殿に次ぐ、荘厳な建物で昭和58年に再建されたものである。ここの見ものはやはり【横山大観】の弟子が書いた天井画でしょう。一見の価値はありますよ。天女が沢山龍のまわりを・・・・。

次が

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最後にご紹介するのが

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末社の数々。出羽三山には百一末社と称し、羽黒を始め月山、湯殿山の山嶺、または幽谷に多数の末社が散在しています。写真の末社は左奥から大雷神社、健角身神社、稲荷神社、大山祗神社、白山神社、思兼神社、八坂神社の合計7社。
これだけでも十分な価値だと思います。

いやぁ、本当にめちゃくちゃパワースポットって感じでした。
この規模の神社もそうはないかも知れないですね。素晴らしい!! 
次回は、ここから今回最後で最大の目的地へと向かいます。最後の目的地は僕がNHKの小さな旅で取り上げられていた寺院さんです。

今回の旅の締めくくりですので、乞うご期待!




みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 36 羽黒山月山羽黒山湯殿山神社 3 [寺社仏閣]

前回の続き。
山頂に到着すると、今にも雨が降り出しそうな天気でした。ここが今回の最大の目的地のひとつ。
日本三大修験道のひとつで、北の高野山とも呼ばれる【羽黒山三社神社】の境内。

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参道の石段の尽きるところ朱の鳥居が出てきます。
もと江戸講中より寄進された青銅の鳥居があったそうなのですが、戦争で供出された跡に庄内の生徒や学童の寄付によって建立されたものだそうです。

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表参道石段の終点鳥居と本殿の間の厳島神社と並ぶ社殿。
出羽三山神社御開祖・蜂子皇子を祀っているそうです。

で、いよいよ三山合祭殿です。

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【国重要文化財:三山合祭殿】
社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物でした。
現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成したもので当時工事に動員された大工は35,138人半を始め木挽・塗師・葺師・石工・彫物師その他の職人合わせて55,416人、手伝人足37,644人、これに要した米976余石、建設費5,275両2歩に達した。この外に多くの特志寄付を始め、山麓郷中の手伝人足56,726人程が動員されたというとんでもない規模で作られた合祭殿です。
建設当時は赤松脂塗であったが、昭和45年~47年にかけ開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となったそうです。平成12年に重要性が認められ国の重要文化財に指定されました。

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ここで一番ビックリしたのは、この賽銭箱。千社札だらけ!しかもシールタイプも多いようでした。

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兎に角、この中に移りこんでいる人々の大きさでこの社殿の大きさが判るかと思います。本当にでかいです!
次はこの社殿に隣接する社務所からご紹介します。


みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 35 羽黒山月山羽黒山湯殿山神社 2 [寺社仏閣]

前回の続き。

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橋を渡って右手に見えて来るのが

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【須賀の滝】
江戸時代、当時の天宥別当が遠く月山より8kmの水路をひいて作ったもので不動の滝と名づけられていたそうです。水音や白いしぶきは涼感を誘っていました。が、まだ肌寒い感じでしたね。

その滝から2~3分歩いた所にあるのが

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【爺スギ】
立つ婆杉・爺杉にたどりつく。樹齢1000年といわれ、国の天然記念物に指定されています。
昔は婆杉と並んで羽黒山の名物だったが、婆杉は台風で失われてしまったそうです。

そして、この先に待っているのが

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【国宝:羽黒山五重塔】

平安時代中期の承平年間(931年 - 938年)平将門の創建と伝えられているが定かではないそうです。
現存する塔は、『羽黒山旧記』によれば応安5年(1372年)に羽黒山の別当職大宝寺政氏が再建したと伝えられています。
慶長13年(1608年)には山形藩主最上義光(もがみよしあき)が修理を行ったことが棟札の写しからわかります。
この棟札写しによれば、五重塔は応安2年(1369年)に立柱し、永和3年(1377年)に屋上の相輪を上げたという。
塔は総高約29.2メートル、塔身高(相輪を除く)は22.2メートル。
屋根は杮(こけら)葺き、様式は純和様で、塔身には彩色等を施さない素木の塔である。
明治時代の神仏分離により、神仏習合の形態だった羽黒山は出羽神社(いではじんじゃ)となり、山内の寺院や僧坊はほとんど廃され、取り壊されたが、五重塔は取り壊されずに残された数少ない仏教式建築の1つである。江戸時代は五重塔の周囲には多くの建造物があったそうです。
近世までは塔内に聖観音、軍荼利明王、妙見菩薩を安置されていたそうですが、神仏分離以後は大国主命を祭神として祀り、出羽三山神社の末社「千憑社(せんよりしゃ)」となっています。

凄く価値ある国宝のようです。

と、思っていたのですが、ここからが大変らしいのです。
この先は

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このような階段がずっとずっとず~っと続くそうなのです。行っても良かったのですが、他にも回る場所もあるし、今日中に仙台にも戻らないといけない為、断念。

戻ること

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しかし、戻っても結局階段でした(^^;)。

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極楽への入り口のような隋神門が見えて来ました。ここから一度車に乗って山頂へ向かいます。
有料道路を通ると、その先に出て来ますがそれはまた次回。



みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 34 羽黒山月山羽黒山湯殿山神社 1 [寺社仏閣]

先ずは一言、神社名が長い!
「月山羽黒山湯殿山神社」だそうです。

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ちなみに、この神社。日本三大修験山と言われているようです。では、入って行きましょう。

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兎に角、規模がデカイ境内です。山ひとつが神社境内になっています。今からこの山頂まで向かいます。

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出羽三山は、出羽三山神社の社伝では崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられています。
崇峻天皇が蘇我氏に弑逆された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入り、そこで3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝えられています。

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この先にあるのが

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【国の特別天然記念物:羽黒山スギ並木】
樹齢は300年以上のスギ並木が続いていきます。

軽快に階段を下りると出てくるのが

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10近くの神様を祭っている末社がありました。そして、その先にあるのが

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【祓川神橋】
この橋の下を流れる清流は月山に源流を発していて、昔出羽三山に参拝する人々は全てこの川で身を清めたそうです。橋は、過去何回かの修復を繰り返し現在の橋は昭和52年に架けられたものだそうです。

そして、この先に国宝が待っていますが、それはまた次回。





カメラを持って [ひとり言]

明日は紫陽花を撮りに行くんだなぁ。
鎌倉か箱根か、深大寺か府中の森。さぁて、どんな写真が撮れる事やら。

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