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みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 18 世界文化遺産 中尊寺 3 [寺社仏閣]

前回の続き。

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【経蔵:国の重要文化財】
金色堂の近くにあるお堂で、国宝の一切経を納めていた建物だそうです。
一部平安時代の古材が使用されているが、建築年代は鎌倉末期と推定されている。内部には国宝の螺鈿八角須弥壇 (実物は讃衡蔵へ移動) が置かれ、壇上には獅子に乗った文殊菩薩像と従者4体からなる文殊五尊像 (重文) を安置していた。

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中には、獅子に乗った文殊菩薩像。お堂の周囲は新緑に包まれていました。

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次へと進みます。

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ここから先が中尊寺鎮守白山神社。

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白山神社参道。

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本殿。そして、この神社の見所はこれ。

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【白山神社能舞台:国の重要文化財】

「仁明天皇の御代嘉祥3年(850年)中尊寺の開祖である慈覚大師が加賀の白山をこの地に勧請し自らは十一面観音を造り、中尊寺の鎮守白山権現と号された。嘉永2年(1849年)火災で焼失し、現在ある能舞台は嘉永6年(1853年)伊達藩主伊達慶邦朝臣から再建奉納されたもの。(平成15年国の重要文化財指定)現行の能舞は天正19年時の関白豊臣秀次公と藩主伊達政宗公が当社参拝の節、観覧に供し以来今日に至っている。明治9年秋には、明治天皇が御東巡の折りに当社に御臨幸あらせられ、古式及び能舞を天覧あらせられました。」

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次回、中尊寺編最終。


みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 17 世界文化遺産 中尊寺 2 [寺社仏閣]

前回の続き。

中尊寺境内を更に進み、弁慶堂、地蔵堂、薬師堂と続き、次に出てくるお堂が

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【観音堂】
ここには説明立札がありませんでしたので一般的な観音堂の説明で(^^)
観世音菩薩の像を安置してある堂で、観世音信仰の広がりから全国各地に建立されていきます。
観世音の住むところは、南海補陀洛山(ふだらくせん)とのことから、多くは山の中腹や断崖の上、海岸の岬等に建立されています。
観音菩薩は一般的には観音さまと呼ばれ、日本で一番信仰を集めている仏様でも有名です。衆生の苦しみや救いの声を聞きつけて馳せ参じてくださる仏様で、性別は女性でも男性でもないとされ、必要に応じて刹那刹那にあらゆる姿に変化される「かたよりのない存在」といわれています。また衆生を救済に顕れる時、多くの姿をとると言われ、聖観音・ 千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音等は有名です。

他のお堂よりも境内中心部分にあるのに、どこかひっそりとした感じでした。その観音堂の向かいにあるお堂が

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【中尊寺山門】

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【中尊寺本堂】
本堂は中尊寺の中心となる施設でその規模も最大です。奥州藤原氏が亡ぶと次第に勢いも無くなり、建武4年(1337)には火災により多くの堂宇と共に本堂も焼失しました。近世に入ると伊達藩の庇護の元、多くの建物が再建され、本堂前にある山門も元々一関藩主であった伊達兵部宗勝の居館であった一関城より万治2年(1659)に移築されました。山門は薬医門形式で左側に脇門があるなど城郭建築の一端を見る事が出来ます。現在の本堂は明治42年(1909)に再建されたものですが比叡山延暦寺より分火された「不滅の法燈」や様々な儀式などが執り行われています。

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こちらで御朱印を頂きました。

で、いよいよ日本の国宝建造物第1号の中尊寺金色堂へと向かいます。流石に国宝第1号の建造物なので、少し詳しくご紹介しますね。

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この林の中に建つお堂が覆堂になります。現在の金色堂覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート造のもので、金色堂はこの覆堂内のガラスケースに収められ、温度・湿度が調整されている。金色堂は、長年の間にネズミなどの害にあったり、金箔が剥げるなど劣化が進んでいたため1962年から1968年にかけて解体修理が実施され、建立当初の姿に復元されました。
解体修理後、強度の点で再使用できなかった部材は別途保管され、一部は覆堂内に展示されています。
1986年から1990年にかけて、覆堂の改修工事が行われ、ガラスケースも更新されました。
金色堂は1897年(明治30年)、当時の古社寺保存法によって「特別保護建造物」(現行法の重要文化財に相当)に指定。1951年、文化財保護法による国宝建造物第1号に指定されたのです。

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もう金ぴかピカピカでした。※撮影禁止の為パンフレットや国宝図鑑などを写メしました(^^)

金色堂は、中尊寺山内のやや西寄りに東を正面として建つ、方三間(正面、側面共に柱間が3間)、平面の1辺が5.5メートルの小型の仏堂である。堂は、1965年建設の鉄筋コンクリート造の覆堂(おおいどう、さやどう)内にあり、ガラスケースに納められて外気と遮断されています。
金色堂は奥州藤原氏の初代藤原清衡により建立され、棟木に天治元年(1124年)の年次と共に「大檀散位藤原清衡」「女檀 安倍氏 清原氏 平氏」が物部清国を大工として建立した旨の墨書があり、この年が建立年とされています。
2006年に奈良文化財研究所は、解体修理時に取り外されていた金色堂の部材をデジタルカメラを使用した年輪年代測定法で調査し、その調査報告によれば金色堂に使用された木材の伐採年代は1114年から16年頃とされ、上記の建立年代は科学的にも裏付けられました。
奥州藤原氏滅亡直後の文治5年(1189年)、中尊寺経蔵別当心蓮が源頼朝に差し出した「寺塔已下注文」(『吾妻鏡』所収)には、当時残存していた中尊寺の堂宇が書き出されているが、その中に「金色堂 上下四壁は皆金色なり」云々の記載があり、当時から「金色堂」と称されていたことが分かります。

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何が凄いのかは、この写真のあらゆる部分が国宝や重要文化財の塊なんです。その内訳を見てもビックリします。

国宝

中尊寺金色堂 1棟

桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、本瓦形板葺
附:棟札4枚
一、修覆正応元年大歳戊子初冬日の記があるもの
一、修□□正応□□六日の記があるもの
一、改修造永徳第四甲子二月廿一日の記があるもの
一、修復元禄十二己夘秊十月三日の記があるもの
附:納札1枚
一、元禄拾弐卯つちのと十月朔日の記があるもの
附:旧組高欄 6組
附:古材 6点 (入側柱2、側柱1、隅棟2、木瓦1)
附:旧飾金具 2点 (八双金具1、藁座金具1)
明治30年(1897年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づき、特別保護建造物に指定
昭和26年(1951年)6月9日、文化財保護法に基づき、国宝に指定。棟札4枚のうち2枚(正応元年初冬日のものと永徳4年のもの)はこの時、追加指定。
昭和53年(1978年)5月31日、附の棟札残り2枚、納札、旧組高欄、古材、旧飾金具が追加指定される。
金色堂堂内諸像及天蓋 31躯、3面
木造阿弥陀如来及両脇侍像 3躯
木造地蔵菩薩立像 6躯
木造二天王立像 2躯
木造天蓋 1面
(中壇)
木造阿弥陀如来及両脇侍像 3躯
木造地蔵菩薩立像 6躯
木造二天王立像 2躯
木造天蓋 1面
(左壇)
木造阿弥陀如来及両脇侍像 3躯
木造地蔵菩薩立像 6躯
木造二天王立像 1躯
木造天蓋 1面
(右壇)
附:木造阿弥陀如来坐像(右壇安置) 1躯
附:木造光背台座等残片 一括
昭和31年(1956年)6月28日、仏像32躯と光背台座等残片一括(附指定)が重要文化財に指定。
平成16年(2004年)6月8日、別件で国宝に指定されていた天蓋3面を追加指定し、「金色堂堂内諸像及天蓋」として、あらためて国宝に指定。右壇の阿弥陀如来は「附」指定となる。
中尊寺金色堂堂内具
木造礼盤 1基
螺鈿平塵案 3基
磬架 1基 附:孔雀文磬 1面
金銅幡頭3枚
金銅華鬘(迦陵頻伽文) 6枚
明治36年(1903年)4月15日、天蓋2面と幡頭3枚が当時の古社寺保存法に基づき、国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定。同年同日、華鬘6枚が同じく古社寺保存法に基づき、国宝に指定。
大正4年(1915年)3月26日、案2基と磬架1基が古社寺保存法に基づき、国宝に指定。
昭和33年(1958年)2月8日、文化財保護法に基づき、既指定の「天蓋2面、幡頭3枚」、「華鬘6枚」、「案2基、磬架1基」の3件の文化財を統合し、これに天蓋1面、礼盤1基、磬1面を追加指定したうえで、「中尊寺金色堂堂内具」の名称で、あらためて国宝に指定。
昭和53年(1978年)6月15日、国宝「中尊寺金色堂堂内具」に案1基を追加指定。
平成16年(2004年)6月8日、国宝「中尊寺金色堂堂内具」から天蓋3面を分離。当該天蓋は「金色堂堂内諸像及天蓋」の一部となる。

重要文化財

金色堂須弥壇内納置棺及副葬品
金箔押木棺 1合
白綾袷袴 1腰
白平絹袷袴 1腰
白綾袷衾 1帖
紫平絹括枕 1箇
絹本墨画像 1面
赤木柄螺鈿呑口式腰刀(鐺残闕共)1口
大刀 1口
赤木柄短刀 1口分
短刀残闕 1口分
刀子鞘残闕 2箇
銀鍍金目貫座金 1箇
銀鍍金革先金 1対
金七ツ金 2箇
銀七ツ金 2箇
螺鈿目貫座金 1箇
金塊 1箇
鮫皮残片 一括
念珠 一括
平絹・綾・錦残闕等 一括
(以上中央壇)
金箔押木棺(内張錦共)1合
白平絹袈裟 1掛
白平絹単衣 1領
白平絹袷小袖 1領
白平絹括枕 1箇
角打紐 一括
呑口式打刀 1口・鹿角装鞘残闕 一括
鹿角装巴文刀装具残闕 1箇
木刀子 1口
刀子残闕 2口
念珠 一括
平絹・綾・錦残闕等 一括
(以上西北壇)
金箔押木棺 1合
枕芯木 1箇
大刀鞘残闕 1箇
刀子鞘残闕 4箇
鍍金手貫緒鐶 1箇
念珠 一括
平絹・綾・錦残闕等 一括
(以上西南壇)
附:首桶 1合
附:赤地錦残片 1枚
附:縹綾残片 1枚
附:念珠 一括
(以上西南壇所在)
附:大刀 2口
昭和30年(1955年)6月22日、「考古資料」として重要文化財に指定。
昭和49年(1974年)6月8日、追加指定。中央壇の刀子鞘残闕2箇、鮫皮残片一括、西北壇の角打紐 一括、西南壇の刀子鞘残闕4箇、鍍金手貫緒鐶1箇、各壇の念珠一括、平絹・綾・錦残闕等一括がこの時追加される。

この全てがこの写真の中にあるのですよ。

僕の地元宮崎の国宝は・・・・無し。重要文化財は建造物、美術品を合わせても17しかありません。
そう考えると、このお堂の貴重さが伺えるかと思います。
あくまでも個人的な意見ですが、多分この金色堂があったから平泉の世界文化遺産の登録がなされたといっても過言ではないと思います。

境内順路が前後しますが、この鉄筋の覆堂の以前に使っていた覆堂がこちら。

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【金色堂覆堂:国の重要文化財】

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まぁ、兎に角凄いですね。京都の金閣寺も金ぴかでしたけど、元々国宝だった金閣寺は惜しくも火事で消失し再建された建造物になります。
こちらは当時のまま修復を繰り返しての国宝ですから。いやぁ、本当に凄い!!

次回は、この先に建立されている重要文化財の数々をご紹介します。




みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 16 世界文化遺産 中尊寺 1 [寺社仏閣]

2日目は今回の旅の5大目的地のひとつ。中尊寺から拝観します。

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中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院で、奥州三十三観音番外札所でもあります。
山号は関山(かんざん)、本尊は阿弥陀如来。寺伝では円仁の開山とされる。実質的な開基は藤原清衡。
奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を所有している寺院さんです。

「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の一つとして世界遺産に登録されており、「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定されてもいます。

いよいよ境内の中へ。

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寺伝によると、嘉祥3年 (850年)、円仁 (慈覚大師) が関山弘台寿院を開創したのが始まりとされ、その後貞観元年 (859年) に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったそうです。
しかし、円仁開山のことは、確かな史料や発掘調査の結果からは裏付けられず、実質的には12世紀初頭、奥州藤原氏の初代・藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが、中尊寺の創建と見られています。

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最初に出てくるお堂が

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弁慶堂。
「この堂は通称弁慶堂という文政9年(1826)の再建である。藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置す。弁慶像は文治5年(1189)4月高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり更に宝物を陳列国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である。」

正直な意見としてお堂の中は・・・な感じ。お堂の中にペットボトルはちょと場違いでしょう。
まぁ、そこから少し歩いて参道が分岐しますが、その右方向には

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八重桜が満開で、その先には素晴らしい景観が(^^)

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今回も出て来ました、この看板。これを見つけるとウキウキします。分岐していた参道が再びひとつになり更に進むと、地蔵堂を過ぎ次に見えてくるお堂が

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薬師堂。
「この薬師堂は藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった。その旧跡は現在の所ではなく、他に建立されたのであったが明暦3年(1657)に現在地に建立された。堂内には慈覚大師作と伝えられる薬師如来が安置され脇仏として日光菩薩、月光菩薩が安置されております。また薬師如来の分身または化身とも言われる十二神将が併置されているのは中尊寺山内の薬師堂としては当座しかありません。・・・(中略)この薬師信仰は東北地方に平安の昔から中尊寺を中心にさかんに行われました。特に眼病の人々には盲僧信仰として広く信仰されたのがこの薬師如来であり、この御堂であった。またこの御堂には子安地蔵が安置されている。その由来は出産や育児のための信仰で、神道では木花咲耶媛を祭神としている神仏習合で、子安観音が祀られている。」

次回は、本堂から日本の国宝建造物第1号に選ばれた金色堂へと進んで行きます。


プールでのマナー。 [ひとり言]

先日、サボっていたプールに行きました。週に3日から4日の1日1時間。
世田谷区の区民プールなのだが、50mと25mのプールを完備していて利用し易い。

その時の50mプールのコース設定は、
1コースと2コースは自由コース。
3コースはウォーキングコース。
4コースと5コースはそれぞれ往復コース。
6コース~8コースは団体貸切コース。

僕は陸上と同じ短距離型なんで、50m一気に泳いで戻りはウォーキングに切り替える感じ。それを約18往復出来ればイイかなぁって感じでやっていますが、なかなかキツい!! 昨日もそれを実践していました。

往復コースに入り泳ごうとすると、かなり大柄の外国人の男性が何か騒いでいました。
基本このような問題には巻き込まれたくないので無視して泳ぎ始めました。
往復コースはそのコースの中で行きと戻りが存在するちょいと狭いコース。そら狭いですよね、ひとつのコースの中で行きと戻りが存在するのだから。

50mを泳ぎ隣のウォーキングコースに移って歩き出した時、またあの外国人の男性が監視員に何かを訴えていました。
兎に角、何か気に入らない事があるのだろうと思いつつその人の脇を通って、再度往復コースに入って泳ぎだした時でした。
突然、前方にこちらに向かってくる人が!!!!
ビックリした僕は泳ぎを止めて立ち止まってしまいました。もう少しで衝突するところでした。
相手は・・・・というと、何食わぬ素振りで元の戻りのコースに戻って、そのままターンして僕を追い抜いていきました。
”危ないだろうが!!”と思ったけど、声に出しても仕方ないし我慢しようと思ったときでした。
「ほら、あれですよ。危ないよ、あれ!あの人安心して泳げないよ。どうして、あれを許すの!危険だよ!」
と例の男性が捲くし立てているではないですか。
言われた女性の監視員は言いました。
「大丈夫でしたか?」
その言葉に、男性は激怒!「大丈夫でしたかって、そんな状況になるかも知れないのに放置していて大丈夫でしたかって、大丈夫も大丈夫じゃないもないだろ!」
まさしくその通り。

まぁ、巻き込まれたくないから、僕はそのまま泳ぎ続けました。

50m泳ぎ切りウォーキングコースを越えて自由コースに入り全体を見回して見ると、2人の無茶な泳ぎ方をしている人が・・・そこにもう1人増えて3人。
しかもこの3人のうち2人、追い抜く割には泳ぎが遅い。追い抜きをかけてから追い抜くまでに10m以上かかるから、反対を泳いでくる人には邪魔で仕方がない。

それでも、その外国人の男性は我慢し泳ぎだしました。
すると、またその3人のうちの赤い水泳帽を被った中年の泳ぎの下手な男性が追い抜きました。
その瞬間、外国人の男性が止まり立ち上がってプールを出ました。
すると、放送室に向かいました。
放送室の中で待機していたその日の責任者らしき人が出て来て対応していましたが、どう考えても外国人の男性の言い分が正しい。
しかし、その責任者らしき人は反論していました。外国人の男性は熱くなり始めました。
そりゃぁ、熱くもなるでしょう。本当に危険なんです。
僕も数回突き指やぶつかった事もあります。何故、あのような危険な事を見過ごして黙っているのか理解出来ません。
しかも、その後の行動が理解出来ない。
外国人の男性は、そのままプールを上がって更衣室へと戻って行きました。
外国人の男性が背中を見せてシャワー室へ向かいだした頃、放送室の中に数人の監視員が集まり外国人の男性を見ながら笑って何か話していました。
僕はそれを見てがっかりしました、同じ日本人として情けないなぁ・・・と。まぁ所詮バイトでしょうけど、そのバイトと一緒に笑っている責任者がみっともない。
もうあの男性は来ないかも知れない。折角健康作りの為にプールに来て、気分を害するなんて・・・。
日本のイメージも悪くなるし、何も悪くないあの男性は気分の悪いまま過ごさないといけないなんて不憫でならない。

やはり世の中にはマナーってあると思うのですよ。

公益財団法人世田谷区スポーツ振興財団は、世田谷区民のスポーツ及びレクリエーション活動を普及振興するとともに、区民がスポーツ及びレクリエーション活動を通じて、心身ともに健康で豊かな生活を送ることができる生涯スポーツ社会の形成に寄与することを目的とする。

これに反した行為だと思うのですよ。
どこかのスポーツジムで泳ぐなら好きにやって下さいですよ。ただ、ここは世田谷区の区民プールなんです、心身ともに健康で・・・ってルールに反しているのだから、監視員はそれを見かけたら厳重に注意すべきだと思うのですよ。

今度同じような事があったら僕も直接世田谷区に言いたいと思うくらいの出来事でした。


みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 15 石巻訪問 [旅行]

あの日、3.11を関東で体験しました。
銀行の建物が揺れ、外に出ると駅から人が溢れ出すように出てきました。
街中が地響きのような音と共に揺れ続けました。
電柱もビルも人々も・・・・。

会社に帰ってテレビを点けるとと、東北地方の東沿岸を天変地異な津波が襲っていました。あまりの衝撃にSF映画でも見ているのかと思いました。
その後も大きな地震が度々襲いました。会社の事務員さんの実家の建物が崩壊し、浦安の知人の家は傾き、家の中にマンホールが突き出して来たとメールが届きました。会社の部下の家は津波で家と家族を失くしてしまいました・・・・

会社は被災の影響で関係部品が全く製造出来なくなり、全く仕事が回らなくなり危機的状況になりました。
知り合いの会社が次々に倒産していきました。
何度か会社をたたむか皆で話し合いをして、何とかあの時期を乗り越えました。

そして今回、時間をとる事が出来たのと訪問しようという気持ちが芽生え、甚大な被害を受けた石巻に行って来ました。
沢山の方々が献花に訪れていました。手を合わせ拝み泣く人、握手する人、鯉幟をあげる人、様々な方々が思い思いの気持ちで訪れていました。
石巻市に入る途中、沢山の墓石を目にしました。真新しいものが多いのを見て心が痛く締め付けられる思いでした。ある歌手が紅白の時に歌った場所に行きました。もう当時を想像する事なんて出来ませんでした。ただ祈ることしか・・・・。

行ったからといって何かが出来るわけでもないし、僕らが行った所でちょっとした微々たる経済効果しかないけど、行かないよりは行って自分の目で見てみようと思い、今回の計画を立てました。







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思い出してごらんよ
幼い日 胸をふるわせた
言葉にできないまま 残して来たものを

青空にそこだけ
影おとし 山にかかる雲
儚い夏のような 虹を降らせていた

戻りたいよ 愛と 遠い日の未来へ
きみに会いにゆくよ ただひとつ覚えてる場所へ
今も消えはしない
握りかえす 手のぬくもり

泣かせたならごめんね
突然の 絵葉書みたいに
それぞれの哀しみを 越えてゆく途中で

笑いたいよ 何も 持たずにかけだし
きみに会いにゆくよ それ以上傷つかない世界へ
いつも照らされてた
見つめかえす 瞳めの光に

戻りたいよ 愛と 遠い日の未来へ
きみに会いにゆくよ ただひとつ覚えてる場所へ
今も消えはしない
握りかえす 手のぬくもり

I'm sorry that I make you cry




松任谷由実 「愛と遠い日の未来へ」より






みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。
ここまでが1日目でした。かなり充実した1日目です。2日目は何処なのでしょうね・・・。
開けてビックリ玉手箱状態の旅、二日目はまた明日以降ご紹介していきます。



みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 14 円通院 

瑞巌寺からJRの駅に歩いて向かう途中にあった寺院さんです。国の重要文化財があると知っては素通りは出来ません。ここで予定変更。拝観する事にしました。

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円通院
円通院(えんつういん)は、臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)の寺院です。
日本三景のひとつ宮城県松島町にあります。周囲には国宝瑞巌寺や五大堂など、静寂で厳粛な趣きのある場所に囲まれています。また、三陸三十三観音霊場の第1番札所とされております。

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「天の庭」は松島湾に実在する七福神の嶋を仏の庭として表し、「地の庭」はいのちを意味した「三宝の庭」です。
松島湾は白砂で周囲の山々はコケで表し、「天」と「地」には天水橋がかかり「天の庭」と「地の庭」を結ぶ掛け橋です。

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この奥に写っている外国の女性。この女性がこの先何度も登場します。

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個人的にはこれがお気に入りの一枚なのですけどね(^^;)

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【霊廟三慧殿:国の重要文化財】
本堂からさらに奥まったところにある光宗公の霊廟三慧殿は、技術の粋をつくした伊達家屈指の建築物で国の重要文化財に指定されています。その厨子には支倉常長が西洋から持ち帰ったと伝わるバラの絵が描かれており、円通院はこのバラを題材にした庭のある「バラ寺」として知られております。

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中門をくぐると本堂の前に心字の池で構成された歴史を感じさせる庭があります。
この庭は伊達藩江戸屋敷にあった小堀遠州作の庭を移設したといわれています。心字の池には蓮の花が補陀落山にはモミジとツツジが季節の移ろいを感じさせてくれるそうです。

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本堂大悲亭は光宗君の江戸納涼の亭で、愛息の早逝を悼んだ忠宗公が解体移築したもので、寄棟造萱葺の瀟洒な姿は、禅寺らしい落ち着いたたたずまいを見せています。


いやぁ、予定変更して良かった良かった(^^)


みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 13 松島 瑞巌寺 2 [寺社仏閣]

ドドーン!と

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【本堂:国宝】昭和28年に国宝指定を受けました。
南東に面し、正面39.0m、奥行き25.2m、入母屋造・平屋・本瓦葺。慶長14年(1609)完成。
内部は禅宗方丈様式に武家邸宅の書院を加えた10室間取で、東・南・西三方に上縁・下縁を巡らしております。
南西端に御成玄関が付属しております。
瑞巌寺本堂は、ただいま平成の大修理中。がっかり・・・。しかし、その代わりお隣の庫裡が公開中だったので、そちらへ。

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【庫裏:国宝】昭和34年国宝指定を受けます。
禅宗寺院の台所。正面13.78m、奥行23.64m。大屋根の上にさらに煙出しが載っている。本来実用本位の建物に唐草や花肘木の彫刻が施されたことに、政宗公の美意識が窺える。


ここの庫裏は規模がでかかったですよ。

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入り口では観音菩薩がお出迎え。

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奥はこんな感じですが、詳細は控えます。一旦外に出て、歩く事5分ほどで

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陽徳院の背後の高台にある伊達政宗公の正室陽徳院田村氏愛姫(1568~1653)の墓堂で、万治3年(1660)孫の綱宗によって造営された。平成18年から3年をかけ創建当初の豪華絢爛な姿に復元。
宝形造、銅板葺、9尺(2.72m)四方の周囲に勾欄(手すり)つきの回廊を廻らし、正面に向拝と木階を備える。内部は三方板壁で金箔を貼り、天井等は極彩色の花が描かれ、須弥壇に念持仏と政宗・愛姫夫妻の位牌が安置されている。
平成18年から3年をかけ創建当初の豪華絢爛な姿に復元。外面全てを黒漆で塗られ、桟唐戸や蟇股は金や極彩色に彩られ、失われていた飾金具も復元荘厳された。扁額は、瑞巌寺109世大巓通喆の筆。

だとうです。

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次は、この左側に書いてある円通院に向かいます。


って、忘れていました。今回はタイトル通り【みちのく四大名刹回廊】もしましたので、まずはここで1個目の御朱印をもらいました。
最後に回った場所のブログでご紹介しますね。



決定しました! [ひとり言]

霧島で泊まるホテルが決まりました。
性格が悪いけど皆さんがしていると聞き、一度それぞれ予約を入れてキャンセルしていきました。

候補とキャンセル理由は以下な感じ。

霧島ホテル
(巨大なお風呂が売りらしいのですが年配者にはあまり興味がないだろうし、電話してみると愛想のない対応をされてしまったので、先行き不安な為キャンセル)

霧島国際ホテル
(口コミがどうも不安要素ありありで・・・、隣の部屋の声が聞こえる・・・・・。キャンセル)

ホテル霧島キャッスル
(ここも口コミが・・・・、キャンセル)

霧島 清流荘
(露天風呂まで階段で降りていくのが大変だと書いてあったので、年寄りには危険かと・・・・。他は問題なかったのですがね・・・。キャンセル)

妙見温泉石原荘
(昔、一度泊まった事があったのですが、知り合いに聞いて・・・・・選択しませんでした)

霧島観光ホテル
(料理がイマイチらしいのです。個人的には満足なのですが、これは知り合いが泊まっての感想なので・・・・、キャンセル)

霧島みやまホテル
(階段がキツいらしく断念。)

さくらさくら温泉
(本館が押さえられなくて断念。)


どうしても階段が多かったりすると、年寄りには危険要素なんですよね。
料理だって、ラップをかけたまま出て来た日には、テンションなんてがた落ちですよ。口コミで高評価が多くてもマイナスコメントが最近起きていると、もしもそれが自分達に当たったらと思うと、どうしても避けてしまいます。

で、今回決定したのは

霧島温泉郷の旅行人山荘さん。
写真を見て最初は素通りしていたのですが、検討を重ねていく内に口コミを見て【ここだ!】と思い予約しました。ホームページではお客様の意見やご要望に対して、早急に対応していました。
口コミの内容もかなり評判が良い感じでした。
しかも部屋数は然程多くもない所も長所。
料理のプランも少ないので逆に迷わずに済むし、追加も出来るとの事。
何より、決定的だったのは宿泊予約のメールでした。
ホテルの担当者より、当日に向けてのご案内と宿泊確認、それに何かご要望があれば何なりと・・・って感じのメール。
それに対して、食事の量の件、バリアフリーの件、食事アレルギーの件、露天風呂の件を問い合わせました所、丁寧な文面で返信が来ました。
これって、かなり好感度が持てますよね。


両親を連れての旅行は日帰りを入れれば、一年に一度はしているのですが、宿泊は殆ど無かったのです。だから、これからは一泊の旅行を増やそうかなぁと・・・。(予算が続けば(^^;))

阿蘇カルデラと九重連山を巡って、久住高原に一泊してから大分経由で帰りました。
今回は、僕の都合上南九州を巡る感じ。
人吉市内で、国宝の青井阿蘇神社、人吉城址、城下町を見て霧島連山に行き、霧島温泉で一泊してから宮崎の小林などで観光して、宮崎市内に戻る流れを予定。
お年寄りで多くは歩けないでしょうし、多く連れ回すのは酷かと・・・。

さぁて、後3週間後になったけど、どんな旅行になる事やら(^^)


みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 12 松島 瑞巌寺 [寺社仏閣]

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瑞巌寺(ずいがんじ)は、宮城県宮城郡松島町の日本三景・松島にある臨済宗妙心寺派の寺院です。
詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。平安時代の創建で、宗派と寺号は天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷した。古くは松島寺とも通称された。

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大正12年9月、松島湾で捕れた鰻の供養として地元民の寄付金で建立されたのがこの鰻塚なんだとか。

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らしいです。

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兎に角、杉の並木が凄いですよ。

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で、次回はこの境内をご紹介して行きましょう。


みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 11 松島 観瀾亭 [旅行]

フェリーで松島に着くと左手に見えるのがこの観瀾亭。
伊達家の迎賓館であり月見のための施設でもあったそうです。

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兎に角、入り前から立て札が多いのを実感。しかし、読めばここの重要性が分かって来ます。

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室内にか屏風や国の重要文化財の襖絵などが展示されていました。

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まぁ、ここから見える景色は素晴らしいものでした。流石伊達家の迎賓館って事だけはあります。

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これは化石なんだとか・・・・。
観瀾亭を後にしてフェリー乗り場の方へ進み、次の目的地でもある瑞巌寺境内に入っていきます。







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