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【等々力界隈】 浄真寺 [寺社仏閣]

等々力渓谷から歩いて20分くらいの所にある寺院です。
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浄真寺は東京都世田谷区奥沢七丁目にある浄土宗の寺で山号は「九品山」。「九品仏」(くほんぶつ)とは、一義的には、後述のとおり同寺に安置されている9体の阿弥陀如来像のことですが、一般には同寺の通称となっていて、同寺の周辺の地区を指す場合にも用いられています。

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【仁王門】
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【鐘楼】古くはないですが、立派なものでした。

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【木造釈迦如来坐像:東京都指定有形文化財】

浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城があった場所なのですが、小田原征伐後同城は廃城となり寛文5年(1675年)に当地の名主七左衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678年)、珂碩(かせき)が同地に浄真寺を開山しました。

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そしてここでもっとも見るべきものが九体の仏様です。
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【木造阿弥陀如来坐像(9躯):東京都指定有形文化財】

広い境内の本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体合計9体のそれぞれ印相の異なった阿弥陀如来像が安置されています。
この9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生という、浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これをあわせて九品(あるいは九品往生)という。この九品の仏から、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれています。

ちなみに、このような九体阿弥陀は他に京都の浄瑠璃寺にしか存在しません。
そう考えると非常に価値のある佛様になります。

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【等々力界隈】 等々力不動尊。 [寺社仏閣]

等々力渓谷から階段を上がって行くと辿り着くのが、等々力不動尊です。
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【等々力不動尊明王院】
等々力不動尊は、言宗智山派の寺院で、滝轟山と号し、等々力満願寺の別院になります。
等々力不動尊明王院は、根来寺の興教大師が当地に不動堂を建立したと伝えられていて、玉川八十八ヶ所霊場33番、関東三十六不動霊場17番です。

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【本堂】
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【境内】
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【山門】

次回はここからずっと歩いて、今回の散歩の一番の目的地へと向かいます。


【諏訪大社巡りの旅】 諏訪大社上社本宮 [寺社仏閣]

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諏訪大社上社本宮は、赤石山脈北端の守屋山北麓に鎮座する神社です。
社殿6棟が国の重要文化財に指定され、社叢は落葉樹からなる自然林で長野県の天然記念物に指定されているのですが、なんとその6棟全てが平成の大修理で見られませんでした。

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【布橋】
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【本殿及び幣拝殿:国重要文化財】
拝殿の後ろに幣殿、左右に片拝殿が続く「諏訪造」と呼ばれる独自配置で、いずれも重要文化財に指定。

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以上、諏訪大社上社下社の計4箇所を参拝しました。
明日は、諏訪でもっとも有名な温泉をご紹介します。



【初秋諏訪大社巡り】 上社前宮 [寺社仏閣]

下社から一気に茅野市に向かいました。茅野市に鎮座するのが上社前宮です。

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前宮は、本宮の南東約2kmの地に鎮座する。諏訪の祭祀の発祥地とされる。境内には水眼(すいが)川が流れる。

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【十間廊】

当地には上社大祝の始祖とされる諏訪有員が初めて大祝に就いて以来、大祝の居館が設けられていました。
大祝は神体と同視(= 現人神)されていたことから、その居館は「神殿(ごうどの)」と尊称され、周辺は「神原(ごうばら)」と呼ばれたようです。
当地では代々の大祝職位式のほか多くの祭事が行われ、摂末社も多く置かれた。大祝は祭政両権を有したことから、当地は諏訪地方の政治の中心地であったと推測されます。

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のち諏訪氏は兵馬の惣領家と祭祀の大祝家とに分かれ、政治の中心地は惣領家の居城である上原城に移った。そして大祝の屋敷もまた慶長6年(1601年)に移転したが、祭事は引き続いて当地にて行われていたそうです。

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【拝所(奥に本殿)】
江戸時代までは「前宮社」として上社境外摂社筆頭の社格[22]を有して鎮座していたが、明治以降上社の前宮と定められた。上社の祭政一致時代の姿を色濃く残していることから、現在境内は「諏訪大社上社前宮神殿跡」として長野県の史跡に指定されています。

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この神社があの御柱祭りの発祥の地なんです。

次回は、ここからほど近くにある上社本宮に向かいます。

(※ちなみにこの諏訪に存在する諏訪大社は下社秋宮、下社春宮、上社前宮、上社本宮と分かれていますが、格式に差は存在しません)




【初秋:諏訪大社巡りの旅】 ~ 諏訪大社下社春宮 [寺社仏閣]

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春宮(はるみや)は下諏訪の町の北端、秋宮の北西約1.2kmの地に鎮座し、下社最初の遷座地とされています。西方には砥川が流れています。
毎年2月-7月に祭神が祀られていて、境内に建立されている社殿3棟が国の重要文化財に指定されています。

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【神楽殿】
江戸時代、天和年間(1681年-1684年)頃造営と伝わっています。

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【幣拝殿:国重要文化財】
江戸時代、安永9年(1780年)落成。幣殿と拝殿が一体となった二重楼門造りで、左右に片拝殿(重要文化財)が並んでいます。

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【片拝殿(左):国重要文化財】
江戸時代、安永9年(1780年)落成。

いやぁ、秋宮と同様に貫禄のある幣拝殿と片拝殿でした。
次回は、ここから諏訪湖の反対側に回り上社を巡って行きます。






【初秋:諏訪大社巡りの旅】 ~ 諏訪大社下社秋宮 [寺社仏閣]

昨日まで紹介していた木曽路の延長線上なのですが、今日からは諏訪大社と銘打ってご紹介したいと思います。
諏訪湖について最初に参拝したのが、4つある代表的な諏訪大社のひとつ【諏訪大社下社秋宮】です。

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秋宮(あきみや)は下諏訪の春宮の町の東端に鎮座し、東方には承知川が流れている神社です。
毎年8月-翌1月に祭神が祀られている。
境内に建立されている社殿4棟が国の重要文化財に指定されています。
周辺は温泉の湧出地で、境内にも御神湯があります。社殿の形式は春宮と同じで、古くは秋宮・春宮間で建築の技が競われたそうです。

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【神楽殿:国重要文化財】
江戸時代、天保6年(1835年)造営。
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そして
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【幣拝殿:国重要文化財】
江戸時代、安永10年(1781年)落成。
幣殿と拝殿が一体となった二重楼門造りで、左右に片拝殿(重要文化財)が並びます。
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【片拝殿(左):国重要文化財】
江戸時代、安永10年(1781年)落成。

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【御神湯】
こちらの御神湯、兎に角熱い。どこかのお婆ちゃんなんてこれを手水舎と勘違いして手を洗おうとして、あまりの熱さに絶叫していました。まぁ、水と思って触れちゃうとそりゃ絶叫しちゃいますよね。

明日はここから程近い場所にある【諏訪大社下社:春宮】をご紹介します。








【初秋木曽路の旅】 ~ 奈良井宿編 5 大宝寺、長泉禅寺他 [寺社仏閣]

奈良井宿も今回が最終回。
他にもご紹介したい場所を何箇所かごUPします。
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【大宝寺】
臨済宗妙心寺派 広伝山
およそ400年前の天正10年に建立された寺で、江戸時代に現在の本堂が建てられ寺名を「広寺山 大宝寺」とした。信州・木曽霊場・七福神めぐりの寺でもあり、知恵と寿命を与える神−寿老人の霊場寺としても有名です。
境内には、キリシタン禁制の江戸時代に抱かれた子供も、膝も頭部も破壊され、わずかに胸の十字架だけが残っている有名なマリア地蔵尊があります。また、裏庭は享保年間につくられた嵯峨流の庭園です。毎年6月頃に咲くツツジと、秋の紅葉は見事な眺めとなります。是非、訪れてみてください。
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【郵便局】
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【上問屋資料館:国指定重要文化財指定】

 上問屋資料館は古文書・陶器・漆器など400点余りの諸道具を展示しており、国の重要文化財に指定されています。昔宿駅には幕府の役人や諸大名・その他の旅行者用のために、幕府の定めた一定数の伝馬(てんま・宿駅用の馬)と歩行役(人足)とを定備しておき、旅行者の需に応じていました。これを宿駅制度(宿場・伝馬制度)といいます。木曽11宿には1宿につき25人の歩行役と25疋の伝馬を用意していたといいます。
 この伝馬と歩行役を管理運用していたのが「問屋(といや)」です。問屋の下には数人の年寄役があって、問屋を補佐していました。奈良井宿の上問屋は慶長年間(1602年)から明治維新までのおよそ270年間継続して問屋を務めました。時には庄屋を兼務することもあったようです。その永い間に残された古文書や日常生活に使用した諸道具等を展示したのがこの資料館です。往時を偲ぶよすがとなれば幸いです。

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【鎮神社】
ここの境内は良かったですよ。

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【SL】
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【木曽の大橋】
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【JR奈良井駅】

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【長泉禅寺】
 3代将軍家光より宇治採茶使が制度化され、御茶壷道中(寛永10年)が始まった。
 茶道頭以下「公儀の11茶壷、西の丸2壷」中山道、甲州街道と経て江戸に向かう。
 元禄2年の記録に依ると5月26日須原、5月27日奈良井宿長泉寺に宿泊とある。毎年の茶壷は必ず奈良井宿長泉寺に宿泊していたと当寺の記録にある。尚、当寺には拝領の茶壷が残されている。

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他の寺院はちょいと生活観が出過ぎていたので、今回はUPしません。
国指定の重要な町並み、重要文化財指定の建造物、お寺、神社、草木花、SL、大橋、食文化、工芸、本当に見所が満載の奈良井宿でした。

明日はこの奈良井宿の枝郷、木曽平沢をご紹介します。



豪徳寺界隈散歩 松陰神社 [寺社仏閣]

松陰神社は、江戸時代末(幕末)の思想家・教育者である吉田松陰を祭神とする神社です。
世田谷区役所から歩いてすぐの所にあります。

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松陰神社境内
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【神楽殿】
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【松陰神社 御社殿】

鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863年)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された。明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。
現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものである。

松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名前が刻まれている。松下村塾を模造した建物、頼三樹三郎、広沢真臣らの墓もある。松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、慶応4年(明治元年)、木戸孝允がこれを修復整備した。墓域には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。また、敷地に隣接する形で桂太郎の墓もあるが、案内が不十分なこともあり、参拝者は少ない。桂自身の遺言により、この地に埋葬された。
徳富蘆花の「謀反論」でも書かれているが谷を挟んだ向こう側には豪徳寺がある。豪徳寺は吉田を刑死させた安政の大獄を起こした井伊直弼の菩提寺である。

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【松下村塾模擬展示】
松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引継ぎました。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。(玉木氏は明治9年死亡) 松陰先生は嘉永5年(1852)23才の時は半年ほど、安政2年(1855)26才の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月迄、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していました。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が名実共に公に認められたのは、安政5年7月20日、先生29才の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5ヶ月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2ヶ年半程であったようです。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ80~90名前後と言われており、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。本神社にある松下村塾は山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。(土日祝のみ雨戸開放(午前9時から午後4時半)。荒天除く)

他にも多くの石碑がありました。



世田谷 豪徳寺 [寺社仏閣]

豪徳寺は、東京都世田谷区豪徳寺二丁目にある曹洞宗の寺院で、元は臨済宗。
山号は大谿山(だいけいざん)。一説には招き猫発祥の地と言われています。

この寺院は会社からも近い場所にある寺院なのですが初めて拝観しました(^^)
では、そんな境内をご紹介します。

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【総門】
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【山門】
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本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
文明12年(1480年)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ。当初は臨済宗に属していたが、天正12年(1584年)曹洞宗に転じる。
寛永10年(1633年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備した。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による。

と書いてありました。

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【三重塔】
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【仏殿:区指定有形登録文化財】

【仏殿木像5躯:世田谷区指定有形文化財】

仏殿同様、延宝5年、仏師・松雲元慶の作。

大権修利菩薩像
弥勒菩薩像
釈迦如来像
阿弥陀如来像
達磨大師像

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【回廊】

そして、ここには全国的にも有名なものが発祥の地なのです。


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【招福観音】
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【招福猫児】

井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所としたといわれています。
豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)」と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置く。招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫です。

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【赤門】
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【本堂】
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【鐘楼:区指定登録有形文化財】

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一気にご紹介しましたけど、こちらのお寺近々ま拝観しに行きますので、その時にはリアルタイムでご紹介します。









豪徳寺界隈散歩 世田谷八幡宮 [寺社仏閣]

豪徳寺界隈を散歩してみました。
近所に引っ越してきて12年初めてかも知れません、こんなに豪徳寺界隈を散歩したのは(^^)
色んな場所を回ったのですが、今回はご紹介するのは世田谷八幡宮と豪徳寺、それに松陰神社の三箇所。では今日はその中のひとつめ【世田谷八幡宮】をご紹介します。

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【世田谷八幡宮:大鳥居】

世田谷八幡宮は、東京都世田谷区宮坂一丁目にある神社である。旧社格は郷社です。
寛治5年(1091年)後三年の役(1083〜87)の帰途、源義家がこの宮の坂の地で豪雨に会い、天候回復を待つため、滞在することとなり今度の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の加護によるものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の分霊をこの地に勧請し祀ったそうです。

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後に世田谷城主七代目の吉良頼康が天文15年(1546年)社殿を再興させて発展させた。この天文15年が実質的な創建の時と考えられる。明治5年(1872年)郷社に列し、社号を宇佐神社と改めたが、第二次大戦後、世田谷八幡宮の名に復した。

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【社殿】

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かつては奉納相撲の勝敗によって来年の豊作・凶作を占ったり、今年の豊作を感謝したため、境内には土俵や力石がある。今でも毎年秋の例祭(9月15日)には東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われています。
最寄駅の東急世田谷線宮の坂駅の駅名はこの神社の脇にある宮の坂に由来している。
文化10年(1813年)年建立の旧本殿が、昭和39年(1964年)に建てられた現在の社殿内に納められています。

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次回は豪徳寺をご紹介します。





















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