みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 21 平泉 高館義経堂 [寺社仏閣]

中尊寺から車で2~3分の場所にある義経所縁の場所に行きました。

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高館義経堂(たかだちぎけいどう)とは、現在の岩手県西磐井郡平泉町高館にあったとされる奥州藤原氏の居館である。源義経の最期の場所として知られる。、衣川館(ころもがわのたち)、判官館(はんがんだて、ほうがんだて)とも呼ばれます。
歩くこと2分くらいでこの階段が出て来ます。

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この館、平泉の北上川と衣川の合流地点より約1キロほど南の丘陵にあり、元々藤原基成の館であったとされます。

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【源義経供養塔】

『吾妻鏡』によれば、義経主従は文治5年閏4月30日(1189年6月15日)に再三にわたる源頼朝の要求に屈した藤原泰衡に襲撃され、妻(郷御前)・子と共に自害したとあります。
館の跡には天和3年(1683年)に仙台藩藩主伊達綱村により義経堂と義経の木像が建立されたそうです。
以降、高館義経堂、判官館などと呼ばれるようになる。

そして元禄2年5月13日(1689年6月29日)に、この場所で松尾芭蕉が詠んだ句が「夏草や 兵共が 夢の跡
あまりに有名ですよね。

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何ともユニークな仁王像様が資料館に安置されていました。

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 源義朝の九男として生まれ、幼名には牛若丸と呼ばれ平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に奥州平泉へ下り奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。
 兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった義経。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によってその怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされる。 全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められここ衣川館で自刃し果てたという義経。

映画やドラマでは源頼朝が悪役に描かれがちですが、兄に朝敵とされるほどですから一長一短だったのでしょうね。それにしても本州の南から北まで駆けるように生き抜いた人生って凄い。景色も雄大で感動しました。

しかし、ここでとんでもない事をしている馬鹿ップルがいました。
この境内の裏でタバコを吸ってました。
普通っていうか、常識的に吸わないでしょう。
面倒だし怒ると無駄な体力も使うから無視しましたが、寺社仏閣を回りだしてこのような非常識な輩は初めて見ました。

まぁ、気分を取り直して次は、この義経を庇護した藤原氏三代の築いた奥州平泉繁栄の基盤にもなったと言われる場所に行きます。



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