姉と湘南と鎌倉観光。 [ひとり言]

今から一泊二日で湘南と鎌倉観光を実施。

僕が上京して13年。
ユーミンのライブや舞台などが催される度に上京している姉が、昨日から上京している。勿論ユーミンの舞台を見る為なのですが、今回は初めての事も。ユーミンとディズニー以外の目的で姉が関東近辺に出かけるのは初めてではないかと・・・。

急に鎌倉に行きたいと言いはじめて・・・。

行きたい場所を聞いてみた。

【新江ノ島水族館】
【江ノ島SPA】
【江ノ島観光】
【鶴岡八幡宮】
【苔寺:妙法寺、杉本寺】
【竹林:報国寺、英勝寺】
【建長寺】
【円覚寺】
【長谷寺】
【鎌倉大佛】
【極楽寺駅前】
【海の見えるカフェ】
【海の見えるブランチ】
【海の見える店でケーキ】
【古民家でディナー】
【和食も外せない】
【蕎麦も食べたい】

食べる時間で6時間・・・・。しかも、ホテルは平塚に取ったらしいのです。
土地勘のない姉にホテルを任せたのも失敗でしたが、土地勘のない方の要望は凄い。


何とか予定を組みたいが、鎌倉は兎に角車では移動できない。
駐車場も少ない。
勿論バスだと時間が組めないし、タクシーだと論外。
あの面倒臭がりの姉が歩くかなぁ・・・。






夏の京都 12 萬福寺 1 [寺社仏閣]

今日からご紹介します寺院が個人的に今回の京都の旅で一番来たかった寺院【萬福寺】を4回にわたってご紹介します。
何と国の重要文化財が31棟もある巨大な寺院なのです。しかもこの萬福寺の最大の魅力は、中国式伽藍なんです。したがって日本の代表的な伽藍の雰囲気とは一風違った風景が広がりますよ。
ではでは境内へと入っていきましょう。

最初に伽藍配置をご紹介します。
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兎に角、巨大な伽藍です。
伽藍は西を正面とし、左右相称に整然と配置されています。
総門をくぐると右手に放生池、その先に三門があり、三門の正面には天王殿、その奥に大雄宝殿、さらに奥に法堂が西から東へ一直線に並んでいます。
これら諸堂の間は回廊で結ばれています。天王殿と大雄宝殿の間をロの字状に結ぶ回廊に沿って右側(南側)には鐘楼、伽藍堂、斎堂があり、左側(北側)には対称的な位置に鼓楼、祖師堂、禅堂が建っています。
これらの建物は日本の一般的な寺院建築とは異なり、中国の明時代末期頃の様式で造られ、材料も南方産のチーク材が使用されています。
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「卍字くずし」のデザインによる高欄、「黄檗天井」と呼ばれるアーチ形の天井、円形の窓、扉に彫られた「桃符」と呼ばれる桃の実形の飾りなど、日本の他の寺院ではあまり見かけないデザインや技法が多用されているのも必見。これらのほか、三門 - 天王殿間の参道を左(北)に折れたところに開山の塔所である松隠堂と呼ばれる一画があり、開山堂、舎利殿などが建ちます。

では伽藍の中へ入っていきましょう。
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【総門:国重要文化財】
寛文元年(1661年)の建立。
瓦屋根の中央部分を高く、左右の部分を低く、段差を設けているのは中国風で、日本の一般的な社寺建築には見かけない形式です。
屋根上左右に乗る魚のようなものは鯱ではなく、摩伽羅という想像上の生物でヒレの代わりに足が生えています。マカラはサンスクリット及びパーリ語でワニを表す言葉で、東南アジアでは仏教寺院の入口などに用いられていいます。

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【中門】頭塔門
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【山門(入山門):国重要文化財】
延宝6年(1678年)の建立。三間三戸二重門である。「三間三戸」は門の正面柱間が3間で、3間すべてが通路になっているものを指します。
(※日本の禅宗寺院の三門は一般的には「五間三戸」であり正面柱間が5間に対して通路が3間)。
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いよいよこの先に天王殿がありその中に数多くの仏様が祀られていますが、それはまた次回。




夏の京都 11 平等院 [寺社仏閣]

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この日の最大の目的地のひとつです。世界文化遺産にも登録されている【国宝:平等院鳳凰堂】を一目見ようと来ました。
10円玉の裏に書かれたこの建造物が、今年の春に平成の大修理が終了したので(^^)。
岩手の無量光院跡の建造物もここ平等院鳳凰堂を模写して建造したそうです。さぁてどのような建造物か・・・非常に楽しみです!!
では、参りましょう!!
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【表門】

そして直ぐに姿を現します。この建造物は日本でも非常に重要な建造物ですのでいつもにないくらい詳しくご説明します。
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【平等院鳳凰堂:国宝】

 平等院鳳凰堂は天喜元年(1053年)に建立された阿弥陀堂です。
 「鳳凰堂」の呼称は後世のもので、平安時代の記録では「阿弥陀堂」あるいは単に「御堂」と呼ばれています。
堂内須弥壇の格狭間に嵌め込まれた金銅板の延宝8年(1680年)の刻銘に「平等院鳳凰堂」とあり、江戸時代には「鳳凰堂」の呼称があったことがわかる。江戸時代の地誌『山州名跡志』(正徳元年・1711年)にも「鳳凰堂」とみえます。
 本尊阿弥陀如来像(国宝)は仏師定朝の確証ある唯一の遺作です。本尊を安置する須弥壇は螺鈿(らでん)や飾金具で装飾されていたが、螺鈿はすべて脱落している。現状では剥落が著しいが、堂内の扉や壁は極彩色の絵画で飾られ、天井や柱にも彩色文様が施されていました。
 長押(なげし)上の壁には楽器を奏で、舞いを舞う姿の供養菩薩像の浮き彫り(現存52体)があり、本尊の頭上には精巧な透かし彫りの天蓋(てんがい)を吊る。
 鳳凰堂は、建造物としては中堂、北翼廊、南翼廊、尾廊の4棟からなります。
 阿字池の中島に東を正面として阿弥陀如来坐像を安置する中堂が建ち、その北と南(向かって右と左)にそれぞれ北翼廊、南翼廊が接続して建ち、中堂の西(背後)に接続して尾廊が建っています。
 中堂は石積の基壇上に建ちます。
 この基壇は壇上積基壇と称し、地覆石、羽目石、束石(つかいし)、葛石(かつらいし)からなる格式の高いものです。
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【鳳凰堂中堂】
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 中堂の外観は2階建てのように見えるが、建築構造としては一重裳階付(いちじゅうもこしつき)です。
 裳階とは、身舎(もや、建物の主要部)の周囲に差し掛けられた屋根の部分を指します。
 身舎は入母屋造、本瓦葺き。組物は三手先(みてさき)、中備(なかぞなえ)は間斗束(けんとづか)、軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)とし、棟上に一対の銅製鳳凰を安置しています。
 なお、保存上の観点から、1968年以降、棟上にはレプリカの鳳凰が設置されており、実物は別途保管されている。
 垂木は地垂木を円形断面、飛檐垂木(ひえんたるき)を方形断面とする「地円飛角」という、奈良時代以来の形式です。
 軒には支輪を設け、支輪部分には宝相華文を描いています。身舎の規模は桁行(正面)3間、梁間(奥行)2間とする(ここで言う「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語。以下同じ)。
 
 身舎は円柱を頭貫(かしらぬき)と内法長押(うちのりなげし)で固める。この3間×2間の身舎の周囲に東西南北とも1間の裳階が付きます。
 裳階の屋根は本瓦葺、軒は二軒繁垂木で、組物は平三斗、中備は間斗束である。裳階の垂木は身舎と異なり、地垂木、飛檐垂木ともに面取りの角垂木である。裳階柱と身舎との間には繋虹梁(つなぎこうりょう)を渡す。 裳階柱は大面取りの角柱とし、これらを頭貫と飛貫(ひぬき)で繋ぐ。ただし、飛貫は当初はなく、後世補強のために入れたものである。裳階の正面(東面)中央間は屋根を一段高く切り上げて、外観に変化をもたせるとともに、池の対岸から本尊阿弥陀如来像を拝するように設計されています。
 身舎東正面中央間の扉を開けると、その内側の格子には軍配形の窓が開けられ、阿弥陀如来の面相が見えるようになっている。裳階屋根上には高欄を設けるが、これは実用的なものではなく、通路としては利用できません。
 日本の一般的な仏堂建築は身舎の前後または四周に「庇」と呼ばれる部分があり、裳階が付く場合は、庇のさらに外側に付けるが、鳳凰堂中堂は身舎と裳階のみで庇のない特徴的な構造になる。

 身舎の円柱は径2尺(約60センチ)ある太いものであるが、周囲を裳階がとりまいているため、外観では身舎の
太い柱が目立たなくなっており、これによって建物全体を軽快に見せている。裳階柱も幅8寸5分(約27センチ)あるが、大面取りが施され、断面八角形に近い柱形状になっているため、実際より細く見えます。
 中堂は前述のように身舎と裳階のみで庇を設けない特異な構造であることに加え、屋根の出が非常に大きく、構造的には不安定な建物になっていて、身舎の屋根の先端部は、裳階屋根の先端部や基壇の端部よりもさらに外側に突き出ています。
 明治期の修理以前の古写真をみると、中堂には、屋根の垂れ下がりを防止するための突っかえ棒が設置され、外観を損ねていました。こうした構造に加え、境内からは創建当初の瓦がほとんど出土しないこともあり、当初の鳳凰堂は屋根に大きな荷重の掛かる本瓦葺きではなく、木瓦葺きだったのではないかと推定されています。木瓦葺きとは、外観を瓦に似せた板で屋根を葺くもので、平安時代の実物としては中尊寺金色堂のものが唯一現存するのみです。
 鳳凰堂の修理は、近代以降では1902年から1907年に半解体修理、1950年から1957年に解体修理が行われました。
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(※クリアファイルを撮影)
 次に中堂の室内の状況について説明します。
 前述のように身舎は正面3間、側面2間であるが、裳階の西側(裏側)部分を室内に取り込んでおり、この部分を含んだ全体を板敷の1室としている。裳階の東・北・南の3面は吹き放し(建具や壁を入れない)とし、切目縁(簀子縁)を設けられています。すなわち、石積基壇の上に直接、縁を乗せた形になります。
 室内は身舎の後寄りに、中央部分を石敷きとした須弥壇を設け、本尊の定朝作阿弥陀如来坐像を安置する。阿弥陀像の頭上には木造天蓋を吊る。須弥壇周囲には高欄を設け、後方左右には壇上に上がる階段を設ける。
 須弥壇の外面は漆塗とし、螺鈿で装飾されていたが、螺鈿はすべて脱落している。中堂の柱間装置は以下のとおりです。
 身舎正面(東面)は3間とも両開き板扉で、室内側には格子を立て込む。
 身舎側面(北・南面とも)の前間は正面と同様、両開き板扉で、室内側には格子を立て込む。
 身舎側面(北・南面とも)の後間は、外面は腰長押を入れ、それより上を連子窓、下を土壁としている。ただし、この連子窓は見かけだけで、室内側は全面板壁になっている。
 前述の腰長押も外面だけに打たれている。身舎の西側は中央間を板壁、その両脇の間は開放とし、裏手の裳階部分と一体の空間を形成している。
 身舎西側中央間の板壁は他の壁と接していない独立壁で、本尊阿弥陀像の背後に位置することから「仏後壁」(ぶつごへき)と称される。
 西側裳階部分は、西面中央間のみを両開き板扉(尾廊へ通じる)とし、他の柱間は土壁とする。身舎の内法長押上の小壁は外見上は土壁に見えるが、実際は板壁に土を塗ったものである。
 東西南北各面の内法長押より上、頭貫より下の壁面には計52躯の雲中供養菩薩像を取り付けていたが、うち半数の26躯は平等院ミュージアム鳳翔館に移動している。室内には前後方向に虹梁を2本掛け渡し、組入天井を支えている。
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 堂内は、板扉と板壁には『観無量寿経』の所説による九品来迎図などの壁扉画(へきひが)があり、柱、長押、貫、組物、天井などの部材はすべて彩色が施されていたが、現状ではいずれも剥落が著しい。正面3間の扉(計6面)、側面(北・南面)前間の扉(計4面)、側面後間の板壁(北面と南面の2面)には九品来迎図が描かれ、背面裳階中央扉(2面)には日想観図が描かれていた。
 日想観とは、『観無量寿経』の所説によるもので、西方阿弥陀浄土に往生するための16の段階の一つとして、沈みゆく夕陽を観想するものである。仏後壁(身舎西側中央壁)の前面と背面にも絵画がある。このうち、背面は九品来迎図の一部であるが、前面の絵は剥落が激しく、主題や制作年代について諸説ある。
 板扉のうち、正面中央間のものは傷みが激しかったため、江戸時代の寛文10年(1670年)に新しい扉に取り換えられ、絵も新たに描かれている。扉と板壁以外の堂内の部材は、宝相華文を主体とする彩色文様で装飾されていた。柱は宝相華文の水平の帯で区切り、宝相華文を背景にして菩薩像や童子像を描く。長押、頭貫などの水平材は、花文を一定間隔で描き、残りの空間は繧繝彩色の条帯文とする。
 中堂の柱間装置のうち、正面各間と側面前間は創建当初から板扉であったが、側面後間と仏後壁は以下のような改造を経ていることが解体修理時の調査で判明しています。
 (当初)側面後間は板扉、仏後壁は土壁であり、背面裳階部分は腰長押から上を外面は連子窓、室内側は板扉としていた。
 (第一次改造)創建直後、または創建時の工事途上に側面後間の板扉を、外面連子窓、内面土壁に変更した。
 (第二次改造)仏後壁を前面板壁、背面土壁にした。側面後間と仏後壁に補強のために筋違を入れた。各面の内法長押上の小壁を土壁から板壁に変えた。
 (第三次改造)側面後間の土壁を板壁とし、仏後壁の背面も板壁にした。側面後間と仏後壁の筋違を除去した。各面の小壁は、内法長押の上、頭貫の下にあたる位置に飛貫を挿入した。背面裳階部分の連子窓はこの時に廃されて土壁になったとみられる。
 
 以上の改造がいつ行われたかは正確には不明であるが、建築史家はおおむね13世紀までには第三次改造が終わったとみている。
 改造の理由については、前述のとおり、当初の鳳凰堂は木瓦葺きであったとみられ、木瓦葺きからより重量の大きい本瓦葺きに変更するに際して、補強のために改造が行われたとみられる。
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 南北の翼廊は形式が等しいため、まとめて説明する。
 北翼廊、南翼廊とも切妻造、本瓦葺き、一重二階建て。
 各翼廊は中堂の側面から南北方向に延び、途中で東方向に直角に折れ曲がっており、平面はL字形を呈する。桁行は折曲り8間、梁間は1間である(折曲り8間とは、L字形の外側の柱間を数えた数字である)。直角に曲がる角の部分には隅楼があり、この部分のみ3階建てになる。
 組物は1階が二手先、2階が平三斗で、軒は二軒繁垂木とする。
 1階柱は頭貫、飛貫、腰貫で固めるが、創建当初は飛貫、腰貫はなく、後から補強のために入れたものである。
 1階の頭貫から下は建具や壁を入れず開放とし、床も張らない。天井は組入天井とし、虹梁と蟇股で支える。2階は階高が低く、人が立って歩ける高さではないが、儀式等の際に人が立ち入ったことも想定されている。
 2階内部の構架は二重虹梁蟇股で、天井は張らず、垂木がそのまま見えている。隅楼の3階部分は方3間、宝形造、本瓦葺きで、屋根頂部に瓦製の宝珠を乗せる。組物は出組、軒は二軒繁垂木とする。
 東西南北面とも中央間を板扉、両脇間を連子窓とする。3階部分には下から昇ることはできず、人の入る空間はない。
 南北翼廊は修理によって取り換えられた部材が多い。各翼廊に16本ずつの柱があるが、うち古いものは北翼廊の柱1本、南翼廊の柱5本のみで、他の柱は明治の修理時の取り換え材である。
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 尾廊は中堂西側裳階に接続し、西側に真っ直ぐ伸びる。切妻造、本瓦葺き、平屋建てで、桁行7間、梁間1間とする。組物は平三斗、内部の構架は二重虹梁蟇股とし、天井は張らない。
 桁行7間のうち、中堂裳階に接する第1間は片引戸、以下は第2・3・6・7間を花頭窓、第4・5間を格子窓とする。尾廊は第5・6間の部分で池をまたいでおり、その部分の柱(西から3本目)は池中に立っている。尾廊の窓や床は室町時代頃に設けられたものとみられる。
 尾廊の柱は大部分が修理によって取り換えられているが、南側の第3間の左右の柱のみは古い。
鳳凰堂の建つ中島と周囲の池については、1990年以降の発掘調査により、拳大の玉石を敷き詰めた平安時代の洲浜が出土し、創建当初の状況が明らかになっています。
 近代以降、中島の面積が広げられているが、平安時代には島の面積は狭く、ほとんど堂と同じ程度の大きさで、両翼廊の端は池に突出していました。
 翼楼の基壇も当初はなかったとみられる。池の対岸(東岸)には、鳳凰堂の阿弥陀如来像を礼拝するための「小御所」という建物の存在したことが福山敏男によって早くから明らかにされていたが、発掘調査により小御所の遺構も検出されています。
 鳳凰堂には52049枚の瓦が使用されており、建立当時は木製瓦を使った木瓦(こがわら)葺きでしたが、約半世紀後の康和3(1101)年の修理で粘土瓦を使った総瓦葺きに改修されました。
 粘土瓦は平等院の荘園であった「玉櫛荘(たまくしのしょう)」(現在の大阪府八尾市)の向山瓦窯跡で1100年初頭に製造されたとされ、2012年9月に始まった改修作業でも平安期の陶器瓦がまだ1560枚そのまま屋根に残っていることが確認されました。

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【庭園】
中島に鳳凰堂の建つ阿字池を中心とした浄土式庭園。国指定の名勝。平成2年(1990年)からの発掘調査により平安時代築造の州浜が検出され、現在は創建当初の姿に復元整備されている。鳳凰堂への入堂も池の北岸から2つの小橋を渡る当初の形式に復されています。

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【浄土院】
浄土院は平等院の塔頭で、浄土宗の栄久(えいく)上人が、明応年間(15 世紀後半)に平等院修復のために開創した寺と伝えられています。 文化財である阿弥陀如来立像、帝釈天立像、養林庵書院障壁画などを管理しています。

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【平等院蓮】

説明が非常に長くなりましたが、これでも足りないくらいの国宝建造物です。
時間があれば是非一度拝観して下さい!!

次回は、個人的に今回の京都の旅で一番行きたかった最大の目的地の寺院です。
さぁて何処でしょうか・・・。



夏の京都 10 宇治神社 [寺社仏閣]

宇治神社は、京都府宇治市にある神社で、式内社で旧社格は府社。
昨日ご紹介しました宇治上神社とは対をなしています。

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【宇治神社】

創建年代などの起源は明らかではありません。
当社のすぐ近くには宇治上神社がありますが、当社とは二社一体の存在であったそうです。
宇治上神社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれています。
宇治上神社の境内外には「天降石」や「岩神さん」と呼ばれる巨石があり、磐境信仰による創祀という説もあります。

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【拝殿(桐原殿】
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【中門】

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【本殿:国重要文化財】
本殿は三間社流造、檜皮葺。鎌倉時代後期の造営とされ、国の重要文化財に指定されています。

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こちらの神社も敷地こそ広くないものの、重要文化財の建造物を保存している国の重要な神社のひとつとなります。
次回は、ここから自転車で10分ほどのところにある【10円玉】と言えばわかるあの寺院に向かいます!!




夏の京都 9 宇治上神社 [寺社仏閣]

伏見稲荷大社から自転車で50分くらい南下した先にあります。

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【世界文化遺産:宇治上神社】
宇治上神社(うじがみじんじゃ、うじかみじんじゃ)は、京都府宇治市にある神社で、式内社で、旧社格は府社。
隣接する宇治神社とは対をなしています。ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の一つとして登録されている。

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創建年代などの起源は明らかではありません。
当社のすぐ近くには宇治神社がありますが、当社とは二社一体の存在であったようです。
当社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれています。
当社の境内外には「天降石」や「岩神さん」と呼ばれる巨石があり、磐境信仰による創祀という説もあります。

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【本殿及び拝殿:国宝】
本殿は平安時代後期の建立で、神社建築としては現存最古とされています。
流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、一間社流造の内殿3棟が左右に並ぶ(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。内殿は左殿(向かって右)に菟道稚郎子命、中殿に応神天皇、右殿(向かって左)に仁徳天皇を祀る(左殿・中殿・右殿を順に第一殿・第二殿・第三殿ともいう)。左殿と右殿は組物が三斗で、組物間に蟇股を置くなど、形式・規模がほぼ等しいが、細部の様式から左殿の方が年代が上がるとみられています。
中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木とし、蟇股を用いないなど、形式にも違いがあります。
外側の桁行5間、梁間3間の建物は内殿の覆屋にあたるが、内殿と覆屋は構造的に一体化しており、左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっています。
左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されている。左殿の扉絵は唐装の童子像2体、右殿の扉絵は束帯・持笏の随身像2体で、剥落が多いが、平安時代にさかのぼる垂迹画の作例として貴重であり、国宝に指定されています。

拝殿は鎌倉時代前期の建立で、寝殿造の遺構といわれています。
切妻造、檜皮葺き。桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇を付す。桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成する。建物右端の庇部分も1室となり、これらに挟まれた中央の桁行5間 x 梁間3間分を広い1室とする。屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根を設けられています。
切妻屋根と庇屋根の接続部で軒先の線が折れ曲がっており、こうした形を縋破風(すがるはふ)と称する。周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、蔀戸を多用した住宅風の構えである。本殿同様、国宝に指定されています。

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【摂社春日神社本殿:国重要文化財】
明治45年2月8日指定

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然程規模は大きくありませんが、立派な国宝建造物です!!
次回はこの神社と対を成す神社、宇治持神社をご紹介します。



夏の京都 8 伏見稲荷大社 千本鳥居 [寺社仏閣]

前回の京都、伏見稲荷大社の続き。

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伏見稲荷大社で有名なスポットと言えば、やはり【千本鳥居】でしょう。

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中へと進みましょう!!

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やはりカップルが多いようです!! 
この先に一ノ峰、二ノ峰・・・と続いて行くようですが、往復1時間以上かかるらしいのでここで断念!! それはまた暇な時にでも・・・。

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朱色と翠色のコントラストが本当に綺麗でした!!
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そしてここから自転車かっ飛ばして、京都市内から離れます。
ってか、行くまでも目的地が京都市内でない事を知りませんでした。

では、また次回。




ダニ事件 ②  [祖父]

昨日お話した続き。
親父が撒き散らかした黒ゴマのお陰で、また騒動が起きたのですよ。

その翌日の話。
祖父が勇み足で出かけて行きました。数時間後、祖父が何かを買って帰ってきました。

母「お父さん、爺さんが何か買って帰って来たが」
親父『ほったらかしとけ』
母「良からぬ気がするけど」
親父『どんなに良からぬ事でも死ぬことはないだろ』

10分後

隣の家の奥さんが玄関に怒鳴り込んできたのだ。

奥さん「靖ちゃん!靖ちゃん、大変。家が燃えちょるが!!!!! 」
母「何処がね?」
奥さん「どこがって、爺ちゃんの部屋よー!」
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(※イメージです)

その話に聞き耳を立てていた親父が咄嗟に飛び上がり、爺さんの部屋に行くと、煙がモクモクと出ていた!!
親父「じさん、大丈・・・・夫・・・か?」
煙を吸い込んで咳き込む親父!!

祖父「こら、何かよ~?」
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祖父が手にしているのは、バルサンでした。何と爺さんはバルサンを自分の部屋で焚いていました。しかも自分も一緒に部屋に閉じ篭って・・・。
親父「早くでろ、爺」

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(※イメージです)

爺さんを引きずり出して、バルサンを外に投げる親父。
外で咳き込む親父と祖父。

キッチンまで煙が入り込み騒ぐ警報機!
「火事です!火事です!危険です、火事です!」

母ちゃん「どこが火事ね?」

もう親父も、祖父も、母もパニック状態。

ゲラゲラと笑う僕。
「これはドリフか?」

この後、爺さんがこっぴどく親父に怒られ、母ちゃんはキッチンの食器などを全部洗い直し、親父は爺さんにバルサンを売った薬屋さんに無意味のクレームを入れる。
もうおかしくておかしくて(^^)。


しかし、まだまだあるのですよ。この類の事件が(^^)。
それはまたの機会に。






ダニ事件 ① [祖父]

昨日の夜、ふと思い出した昔の話。


うちの祖父がまだ健在だった頃、亡くなる3年くらい前から痴呆症が始まっていました。
下の世話がある訳でもなかったので、その点では楽だったらしい。
祖父に息子の父はやり処のない苛立ちを感じていたらしい。


そんな痴呆の始まった祖父は、兎に角突拍子もない事を始めてしまう。ある日、僕が自分の部屋で寝ていた時の話。


祖父が母を何度も自分の部屋に呼び出していた。

祖父「靖子さ~ん、靖子さ~ん」
母 「何ね?」
祖父「これ、見てんな!」と言って、畳を指差した。

指した畳の上に小さなほつれた糸が落ちていたらしい。

母 「これが何ね?」
祖父「ダニじゃ!ダニじゃ!」と興奮しながらルーペで見ていたらしい。
母 「違うが、これは糸がほつれたもんじゃが!」と言うが、祖父には聞こえない。
母が、手に取ろうとすると、祖父が言った。
「ダニを持つもんがあるか!殺せ!」
真剣にダニと思っている祖父を面倒臭いと思った母は、それを取って部屋を出て行った。

数分後、また祖父が母を執拗に呼び出し始めた。
それに苛っとした父が立ち上がり祖父の所に行った。

父 「何[むかっ(怒り)]?」
祖父「ほら!ダニが噛みついちょる!」
そう言いながら、毛布の毛玉をむしり始めたらしい。
父の苛々度は頂点に達した。

父がキッチンへ行き戻ってくると、手に持っていたものを祖父の部屋中にばら蒔いた。
それに気付いていない祖父を無視して、親父は居間へと戻っていった。

数分後祖父が怒鳴り始めた。
母を呼び出すと祖父が大きな声で話し始めた。
「部屋中にダニが発生しちょるが!ダニに食われて死ぬ!」
と言って、部屋中を指差している。
母は部屋中を見てビックリした。
何と祖父の部屋に黒ゴマが散乱していたのだ。

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そう、親父がさっき蒔いたのは、黒ゴマだったらしい。ダニダニ煩い祖父に嫌がらせをしたのだろう。

母は掃除機を持って来て部屋中に掃除機をかけた。
しかし取りきれていない黒ゴマも数粒残っていたようで、それを祖父が見つけると「ほら、生き残りじゃ!」と言って大騒ぎ!

母は何度もそれは黒ゴマだと説明するが、もう祖父の中では黒ゴマも毛布の毛玉もダニにしか見えないようで、この部屋はダニの巣窟だと叫び始めた。
母はダニじゃない事を説明する為に、その一粒を祖父の前で口に運んだ。
それが良くなかった。
祖父は、「靖子さん、ダニを食うもんか!身体中にダニが湧くがぁ~[あせあせ(飛び散る汗)]
もう祖父のパニック度も頂点!
母は面倒だと言いながらも必死に説明していた。
ある意味この介護が最も大変かも知れないと思った日だった。
僕は、その一部始終を見ながら大笑いした。

しかし、この出来事がもっと大変な出来事を引き起こしてしまうのだが、それはまた後日(^^)

※ちなみに虐待ではないので(^^)





南足柄ウォーキング。 3 アサヒビール神奈川工場 [旅行]

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南足柄市運動公園のある丘から谷を挟んで向かいの丘に見えるのが、アサヒビール神奈川工場なのです。
予定には入れていなかったのですが、急遽行ってみることにしました。

工場見学は90分のコースで、最後に試飲が出来るのだとか・・・。
約1時間の工場見学が終了したら、試飲室へ。試飲室というよりレストランって感じでした。
そこで
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なんとアサヒスーパードライが試飲出来ました。
それも
【スーパードライ】
【スーパードライ・ブラック】
【スーパードライ・プレミアム】
の三種類の試飲が可能でした。それも350ml近くのコップで3杯分。

一気に酔いが回りました。

その足で
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隣接するレストランへランチを食べに行きました。

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足柄牛のハンバーグ定食。
美味しかったですよ。もう一気にビールが回った挙句、お腹も一杯になり、バスに乗って駅まで向かい、その後、小田急線で帰りました。

いやぁ、思いもよらない展開の一日でした。
因みに、この日のウォーキングは16kmでした。




南足柄ウォーキング。 2 南足柄市運動公園 [散歩]

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南足柄市運動公園では野球の練習試合が繰り広げられていました。

そしてこの運動公園のこの時期の最大のスポットが・・・




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凄いでしょ!! 
実際にはこの10倍の敷地に咲いていました。一応、神奈川県下の彼岸花群生では一番の規模らしいです。

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この後、アサヒビール工場へ向かいました。




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