夏の京都 11 平等院 [寺社仏閣]

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この日の最大の目的地のひとつです。世界文化遺産にも登録されている【国宝:平等院鳳凰堂】を一目見ようと来ました。
10円玉の裏に書かれたこの建造物が、今年の春に平成の大修理が終了したので(^^)。
岩手の無量光院跡の建造物もここ平等院鳳凰堂を模写して建造したそうです。さぁてどのような建造物か・・・非常に楽しみです!!
では、参りましょう!!
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【表門】

そして直ぐに姿を現します。この建造物は日本でも非常に重要な建造物ですのでいつもにないくらい詳しくご説明します。
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【平等院鳳凰堂:国宝】

 平等院鳳凰堂は天喜元年(1053年)に建立された阿弥陀堂です。
 「鳳凰堂」の呼称は後世のもので、平安時代の記録では「阿弥陀堂」あるいは単に「御堂」と呼ばれています。
堂内須弥壇の格狭間に嵌め込まれた金銅板の延宝8年(1680年)の刻銘に「平等院鳳凰堂」とあり、江戸時代には「鳳凰堂」の呼称があったことがわかる。江戸時代の地誌『山州名跡志』(正徳元年・1711年)にも「鳳凰堂」とみえます。
 本尊阿弥陀如来像(国宝)は仏師定朝の確証ある唯一の遺作です。本尊を安置する須弥壇は螺鈿(らでん)や飾金具で装飾されていたが、螺鈿はすべて脱落している。現状では剥落が著しいが、堂内の扉や壁は極彩色の絵画で飾られ、天井や柱にも彩色文様が施されていました。
 長押(なげし)上の壁には楽器を奏で、舞いを舞う姿の供養菩薩像の浮き彫り(現存52体)があり、本尊の頭上には精巧な透かし彫りの天蓋(てんがい)を吊る。
 鳳凰堂は、建造物としては中堂、北翼廊、南翼廊、尾廊の4棟からなります。
 阿字池の中島に東を正面として阿弥陀如来坐像を安置する中堂が建ち、その北と南(向かって右と左)にそれぞれ北翼廊、南翼廊が接続して建ち、中堂の西(背後)に接続して尾廊が建っています。
 中堂は石積の基壇上に建ちます。
 この基壇は壇上積基壇と称し、地覆石、羽目石、束石(つかいし)、葛石(かつらいし)からなる格式の高いものです。
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【鳳凰堂中堂】
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 中堂の外観は2階建てのように見えるが、建築構造としては一重裳階付(いちじゅうもこしつき)です。
 裳階とは、身舎(もや、建物の主要部)の周囲に差し掛けられた屋根の部分を指します。
 身舎は入母屋造、本瓦葺き。組物は三手先(みてさき)、中備(なかぞなえ)は間斗束(けんとづか)、軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)とし、棟上に一対の銅製鳳凰を安置しています。
 なお、保存上の観点から、1968年以降、棟上にはレプリカの鳳凰が設置されており、実物は別途保管されている。
 垂木は地垂木を円形断面、飛檐垂木(ひえんたるき)を方形断面とする「地円飛角」という、奈良時代以来の形式です。
 軒には支輪を設け、支輪部分には宝相華文を描いています。身舎の規模は桁行(正面)3間、梁間(奥行)2間とする(ここで言う「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語。以下同じ)。
 
 身舎は円柱を頭貫(かしらぬき)と内法長押(うちのりなげし)で固める。この3間×2間の身舎の周囲に東西南北とも1間の裳階が付きます。
 裳階の屋根は本瓦葺、軒は二軒繁垂木で、組物は平三斗、中備は間斗束である。裳階の垂木は身舎と異なり、地垂木、飛檐垂木ともに面取りの角垂木である。裳階柱と身舎との間には繋虹梁(つなぎこうりょう)を渡す。 裳階柱は大面取りの角柱とし、これらを頭貫と飛貫(ひぬき)で繋ぐ。ただし、飛貫は当初はなく、後世補強のために入れたものである。裳階の正面(東面)中央間は屋根を一段高く切り上げて、外観に変化をもたせるとともに、池の対岸から本尊阿弥陀如来像を拝するように設計されています。
 身舎東正面中央間の扉を開けると、その内側の格子には軍配形の窓が開けられ、阿弥陀如来の面相が見えるようになっている。裳階屋根上には高欄を設けるが、これは実用的なものではなく、通路としては利用できません。
 日本の一般的な仏堂建築は身舎の前後または四周に「庇」と呼ばれる部分があり、裳階が付く場合は、庇のさらに外側に付けるが、鳳凰堂中堂は身舎と裳階のみで庇のない特徴的な構造になる。

 身舎の円柱は径2尺(約60センチ)ある太いものであるが、周囲を裳階がとりまいているため、外観では身舎の
太い柱が目立たなくなっており、これによって建物全体を軽快に見せている。裳階柱も幅8寸5分(約27センチ)あるが、大面取りが施され、断面八角形に近い柱形状になっているため、実際より細く見えます。
 中堂は前述のように身舎と裳階のみで庇を設けない特異な構造であることに加え、屋根の出が非常に大きく、構造的には不安定な建物になっていて、身舎の屋根の先端部は、裳階屋根の先端部や基壇の端部よりもさらに外側に突き出ています。
 明治期の修理以前の古写真をみると、中堂には、屋根の垂れ下がりを防止するための突っかえ棒が設置され、外観を損ねていました。こうした構造に加え、境内からは創建当初の瓦がほとんど出土しないこともあり、当初の鳳凰堂は屋根に大きな荷重の掛かる本瓦葺きではなく、木瓦葺きだったのではないかと推定されています。木瓦葺きとは、外観を瓦に似せた板で屋根を葺くもので、平安時代の実物としては中尊寺金色堂のものが唯一現存するのみです。
 鳳凰堂の修理は、近代以降では1902年から1907年に半解体修理、1950年から1957年に解体修理が行われました。
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(※クリアファイルを撮影)
 次に中堂の室内の状況について説明します。
 前述のように身舎は正面3間、側面2間であるが、裳階の西側(裏側)部分を室内に取り込んでおり、この部分を含んだ全体を板敷の1室としている。裳階の東・北・南の3面は吹き放し(建具や壁を入れない)とし、切目縁(簀子縁)を設けられています。すなわち、石積基壇の上に直接、縁を乗せた形になります。
 室内は身舎の後寄りに、中央部分を石敷きとした須弥壇を設け、本尊の定朝作阿弥陀如来坐像を安置する。阿弥陀像の頭上には木造天蓋を吊る。須弥壇周囲には高欄を設け、後方左右には壇上に上がる階段を設ける。
 須弥壇の外面は漆塗とし、螺鈿で装飾されていたが、螺鈿はすべて脱落している。中堂の柱間装置は以下のとおりです。
 身舎正面(東面)は3間とも両開き板扉で、室内側には格子を立て込む。
 身舎側面(北・南面とも)の前間は正面と同様、両開き板扉で、室内側には格子を立て込む。
 身舎側面(北・南面とも)の後間は、外面は腰長押を入れ、それより上を連子窓、下を土壁としている。ただし、この連子窓は見かけだけで、室内側は全面板壁になっている。
 前述の腰長押も外面だけに打たれている。身舎の西側は中央間を板壁、その両脇の間は開放とし、裏手の裳階部分と一体の空間を形成している。
 身舎西側中央間の板壁は他の壁と接していない独立壁で、本尊阿弥陀像の背後に位置することから「仏後壁」(ぶつごへき)と称される。
 西側裳階部分は、西面中央間のみを両開き板扉(尾廊へ通じる)とし、他の柱間は土壁とする。身舎の内法長押上の小壁は外見上は土壁に見えるが、実際は板壁に土を塗ったものである。
 東西南北各面の内法長押より上、頭貫より下の壁面には計52躯の雲中供養菩薩像を取り付けていたが、うち半数の26躯は平等院ミュージアム鳳翔館に移動している。室内には前後方向に虹梁を2本掛け渡し、組入天井を支えている。
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 堂内は、板扉と板壁には『観無量寿経』の所説による九品来迎図などの壁扉画(へきひが)があり、柱、長押、貫、組物、天井などの部材はすべて彩色が施されていたが、現状ではいずれも剥落が著しい。正面3間の扉(計6面)、側面(北・南面)前間の扉(計4面)、側面後間の板壁(北面と南面の2面)には九品来迎図が描かれ、背面裳階中央扉(2面)には日想観図が描かれていた。
 日想観とは、『観無量寿経』の所説によるもので、西方阿弥陀浄土に往生するための16の段階の一つとして、沈みゆく夕陽を観想するものである。仏後壁(身舎西側中央壁)の前面と背面にも絵画がある。このうち、背面は九品来迎図の一部であるが、前面の絵は剥落が激しく、主題や制作年代について諸説ある。
 板扉のうち、正面中央間のものは傷みが激しかったため、江戸時代の寛文10年(1670年)に新しい扉に取り換えられ、絵も新たに描かれている。扉と板壁以外の堂内の部材は、宝相華文を主体とする彩色文様で装飾されていた。柱は宝相華文の水平の帯で区切り、宝相華文を背景にして菩薩像や童子像を描く。長押、頭貫などの水平材は、花文を一定間隔で描き、残りの空間は繧繝彩色の条帯文とする。
 中堂の柱間装置のうち、正面各間と側面前間は創建当初から板扉であったが、側面後間と仏後壁は以下のような改造を経ていることが解体修理時の調査で判明しています。
 (当初)側面後間は板扉、仏後壁は土壁であり、背面裳階部分は腰長押から上を外面は連子窓、室内側は板扉としていた。
 (第一次改造)創建直後、または創建時の工事途上に側面後間の板扉を、外面連子窓、内面土壁に変更した。
 (第二次改造)仏後壁を前面板壁、背面土壁にした。側面後間と仏後壁に補強のために筋違を入れた。各面の内法長押上の小壁を土壁から板壁に変えた。
 (第三次改造)側面後間の土壁を板壁とし、仏後壁の背面も板壁にした。側面後間と仏後壁の筋違を除去した。各面の小壁は、内法長押の上、頭貫の下にあたる位置に飛貫を挿入した。背面裳階部分の連子窓はこの時に廃されて土壁になったとみられる。
 
 以上の改造がいつ行われたかは正確には不明であるが、建築史家はおおむね13世紀までには第三次改造が終わったとみている。
 改造の理由については、前述のとおり、当初の鳳凰堂は木瓦葺きであったとみられ、木瓦葺きからより重量の大きい本瓦葺きに変更するに際して、補強のために改造が行われたとみられる。
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 南北の翼廊は形式が等しいため、まとめて説明する。
 北翼廊、南翼廊とも切妻造、本瓦葺き、一重二階建て。
 各翼廊は中堂の側面から南北方向に延び、途中で東方向に直角に折れ曲がっており、平面はL字形を呈する。桁行は折曲り8間、梁間は1間である(折曲り8間とは、L字形の外側の柱間を数えた数字である)。直角に曲がる角の部分には隅楼があり、この部分のみ3階建てになる。
 組物は1階が二手先、2階が平三斗で、軒は二軒繁垂木とする。
 1階柱は頭貫、飛貫、腰貫で固めるが、創建当初は飛貫、腰貫はなく、後から補強のために入れたものである。
 1階の頭貫から下は建具や壁を入れず開放とし、床も張らない。天井は組入天井とし、虹梁と蟇股で支える。2階は階高が低く、人が立って歩ける高さではないが、儀式等の際に人が立ち入ったことも想定されている。
 2階内部の構架は二重虹梁蟇股で、天井は張らず、垂木がそのまま見えている。隅楼の3階部分は方3間、宝形造、本瓦葺きで、屋根頂部に瓦製の宝珠を乗せる。組物は出組、軒は二軒繁垂木とする。
 東西南北面とも中央間を板扉、両脇間を連子窓とする。3階部分には下から昇ることはできず、人の入る空間はない。
 南北翼廊は修理によって取り換えられた部材が多い。各翼廊に16本ずつの柱があるが、うち古いものは北翼廊の柱1本、南翼廊の柱5本のみで、他の柱は明治の修理時の取り換え材である。
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 尾廊は中堂西側裳階に接続し、西側に真っ直ぐ伸びる。切妻造、本瓦葺き、平屋建てで、桁行7間、梁間1間とする。組物は平三斗、内部の構架は二重虹梁蟇股とし、天井は張らない。
 桁行7間のうち、中堂裳階に接する第1間は片引戸、以下は第2・3・6・7間を花頭窓、第4・5間を格子窓とする。尾廊は第5・6間の部分で池をまたいでおり、その部分の柱(西から3本目)は池中に立っている。尾廊の窓や床は室町時代頃に設けられたものとみられる。
 尾廊の柱は大部分が修理によって取り換えられているが、南側の第3間の左右の柱のみは古い。
鳳凰堂の建つ中島と周囲の池については、1990年以降の発掘調査により、拳大の玉石を敷き詰めた平安時代の洲浜が出土し、創建当初の状況が明らかになっています。
 近代以降、中島の面積が広げられているが、平安時代には島の面積は狭く、ほとんど堂と同じ程度の大きさで、両翼廊の端は池に突出していました。
 翼楼の基壇も当初はなかったとみられる。池の対岸(東岸)には、鳳凰堂の阿弥陀如来像を礼拝するための「小御所」という建物の存在したことが福山敏男によって早くから明らかにされていたが、発掘調査により小御所の遺構も検出されています。
 鳳凰堂には52049枚の瓦が使用されており、建立当時は木製瓦を使った木瓦(こがわら)葺きでしたが、約半世紀後の康和3(1101)年の修理で粘土瓦を使った総瓦葺きに改修されました。
 粘土瓦は平等院の荘園であった「玉櫛荘(たまくしのしょう)」(現在の大阪府八尾市)の向山瓦窯跡で1100年初頭に製造されたとされ、2012年9月に始まった改修作業でも平安期の陶器瓦がまだ1560枚そのまま屋根に残っていることが確認されました。

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【庭園】
中島に鳳凰堂の建つ阿字池を中心とした浄土式庭園。国指定の名勝。平成2年(1990年)からの発掘調査により平安時代築造の州浜が検出され、現在は創建当初の姿に復元整備されている。鳳凰堂への入堂も池の北岸から2つの小橋を渡る当初の形式に復されています。

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【浄土院】
浄土院は平等院の塔頭で、浄土宗の栄久(えいく)上人が、明応年間(15 世紀後半)に平等院修復のために開創した寺と伝えられています。 文化財である阿弥陀如来立像、帝釈天立像、養林庵書院障壁画などを管理しています。

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【平等院蓮】

説明が非常に長くなりましたが、これでも足りないくらいの国宝建造物です。
時間があれば是非一度拝観して下さい!!

次回は、個人的に今回の京都の旅で一番行きたかった最大の目的地の寺院です。
さぁて何処でしょうか・・・。



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