夏の京都 18 西本願寺 1 [寺社仏閣]

パソコン復活後、一回目の寺社仏閣のご紹介は、世界文化遺産にも登録されている寺院【京都、西本願寺】にします。
春に1度ご紹介しましたがイマイチな写真ばかりでしたので、撮り直しました。
詳細は前回の記事で(^^)
(※http://transit2012transit.blog.so-net.ne.jp/2014-01-08-1
とは思ったのですが、やはり酷いので再度作り直します。

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【御影堂門:国重要文化財】

西本願寺は、京都市下京区にある仏教寺院で、浄土真宗本願寺派の本山です。山号は龍谷山。西本願寺は通称であり、正式名称は「龍谷山 本願寺」、宗教法人としての名称は「本願寺」です。
京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれていて、真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」・下京区)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多いようです。

個人的に、今までそれなりに全国を廻って今のところ、一番好きな鐘楼がここ西本願寺の鐘楼です。
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【鐘楼:国重要文化財】
この翠色を使用している所が個人的には評価しています。鐘楼って、彫刻は素晴らしくても、ここまで気合を入れて建造している寺院は、今のところお目にかかっていません。

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【飛雲閣:国宝】
こちらは特別拝観時以外は非公開なので、撮影出来る2階部分のみですが・・・。金閣、銀閣と共に京都三閣になります。ちなみに豊臣秀吉が建築した【聚楽第】の遺構としても有名です。

境内南東隅の滴翠園(てきすいえん)内、滄浪池(そうろうち)と名付けられた池に面して建つ、3階建の庭間建築である。江戸時代の絵図には「御亭(チン)」として現れる。3階建であるが、各階は平面の大きさを変え、屋根などの意匠も左右相称を避け、変化に富んだ外観をもつ。寺に遺る江戸初期の文書『紫雲殿由縁記』(寛永15年成立、延亨4年増修)には豊臣秀吉の遺構だと記されていることから聚楽第の遺構との説も広く流布したが確証はなく、様式的にもやや新しく建築史からは否定的意見が多い。一方その1階平面が大書院対面所に共通するから寛永期に本願寺により建てられたのではないかとする説も唱えられたが(平井聖)、飛雲閣1階は一列型書院造の形を示し、一方対面所は3列型で先に触れたように真宗の本堂建築のスタイルを踏襲していると考えられるから両者が似るとするのは無理があり、さらに建築時期、建築理由など十分な説得性にも乏しく定説とは言えない。近年付属建物である黄鶴台から「寛永五年三月から寛永六年八月迄‥」という墨書が発見され(鶴岡典慶報告)、これが移築の時期を示すのではないかとの推測から、秀吉の京都新城、のちの高台院屋敷の「アコセガ池」畔から、後水尾上皇の仙洞御所造営(寛永4年着手)に先立ち解体撤去され、本願寺に移築された建物との説も登場した。 1階は池から船で直接建物内に入る形式の船入の間、上段・上々段を設けた主室の招賢殿、下段の八景の間、茶室憶昔席(いくじゃくせき)などがある。舟入の間は書院造の「中門」に当たり、ここ以外に正式な入り口は見当たらない。本来障壁画で飾らるべき上段床の間背面の壁が大障子となっている点や上段が部屋の中心軸上になく北側に寄っている点が特異である。柱や長押は角材を使っており数寄屋の手法は見られないが、これら上段や上々段には数寄屋の趣きが濃厚である。憶昔席の部分のみは建築年代が明確で、寛政7年(1795年)、茶人藪内竹蔭らによって増築されたものである。2階歌仙の間は、西側8畳の上段、東側16畳半の下段からなり、上段背面の壁には1階招賢殿と同様障壁画はなく窓が開けられている。隅には喫茶の用に供したものと推測される丸炉が切られている。下段三方の板戸の内外には御簾の下に座す三十六歌仙の像(現状は三十四歌仙)を華やかに描き、天井は金具に飾られた格天井、長押も格調高く打ちまわしており、総じて御殿風の趣きがある。3階は摘星楼と名付けた8畳で、長押は打たず天井も低い草庵風の意匠となっている(ただし天井は鏡天井)。奇木を床柱にした一畳の出床が設けられているがこれは後補。各階の主開口部はいずれも北に開けられており、特に1階の書院が南側に全く開口部をもたないのは書院造としては他に例がなく、また我が国の住宅建築の原則からも外れている。このことが元々南向きであったのではないかとの推測を生み、先に述べた「移築説」の根拠の一つとなっている。なお、元禄時代の状況を示すと考えられる1階平面図(本善寺所蔵)により、現況では北縁側(入り側)に設けられている腰障子はなかったと判り、当初の北立面は今より凹凸に富んでいたと考えられている。 飛雲閣は原則非公開であるが、外観のみ期日を限って特別公開される。また毎年5月21日の宗祖降誕会の際には室内に茶席(有料)が設けられる。
(※Wikipediaより抜粋)

文永7年(1272)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたのですが、その後比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転しました。
境内は国の史跡に指定され、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されています。

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【国宝:御影堂】
寛永13年(1636)建立。東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートル。中央に親鸞聖人の木像、左右に本願寺歴代門主の御影を安置し、重要な行事は、この御堂で行われます。

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【書院:国宝】

書院(対面所及び白書院) 御影堂の南西に位置する。近世書院造を代表する建築の一つである。入母屋造妻入り、本瓦葺きで、平面規模は桁行(本建物の場合は奥行)38.5メートル、梁行(間口)29.5メートル。南側の対面所と北側の白書院から成るが、両者は元来別々の建物であった。本建物を豊臣秀吉の伏見城の遺構とするのは俗説で、実際は後述のとおり江戸時代に西本願寺自身により建てられた建物である。 対面所の主室は欄間に雲と鴻(コウノトリ)を透彫りにするところから、「鴻の間」とも呼ばれる。広さは下段のみで162畳、上段を含め203畳、天井は格天井とする。襖、壁等の障壁画は本願寺お抱え絵師の渡辺了慶の筆と推定されている。正面奥(北側)は東西方向に長大な上段とし、中央に大床(おおどこ)、左に帳台構を設ける。上段の東には床高をさらに一段高めた上々段があり、違い棚と付書院を設ける。能舞台を持つ広庭に南面する広大なスペース、無目敷居による下段の三列二段の区画など、住宅建築としての書院造から儀式空間である対面所に特化した書院造の姿を見せる。この広大な平面については、真宗の本堂建築を基本に、その内陣に代えて上段、上々段、帳台構など書院造の要素を付加したものとの指摘もある。この対面所の西側には控えの間である雀の間、雁の間、菊の間があり、北側には納戸2室を挟んで白書院がある。白書院は西から東へ三の間、二の間、一の間(紫明の間)からなる。一の間には変形10畳の上段があり、床、棚、付書院、帳台構を備える。なお、対面所と白書院三の間は、畳を上げると板敷きで、能舞台としても使用できるように工夫されている。 寺の文書によれば、対面所は元和3年(1617年)の火災で失われた対面所に代わって火災の翌年に再建された建築で、当初は現御影堂付近に東向きに建てられていたが、御影堂再建に先立ち寛永7年(1630年)に元和焼失以前に対面所が建っていた現在地に90度向きを変えて移築された。このことは1969年に行われた半解体修理の際に発見された小屋組の梁の番付墨書によりはじめて確認された。この移転と同時に西側に雀の間などが増築されたと考えられ、のちに(安永6年か)北側に別棟であった白書院を移築合体させた。東縁側に面して枯山水の「虎渓の庭」が設けられている。 書院は原則非公開。期日を限って特別公開が行われる場合があるが、それ以外の時期の拝観には事前の許可が必要である。(詳細は下記「拝観」の項を参照) 黒書院及び伝廊 黒書院は書院の北東に位置し、伝廊とともに国宝に指定されている。桁行21.5メートル、梁行13.9メートル。寺の記録から明暦3年(1657年)の建立とわかる。屋根は寄棟造、こけら葺きで、主屋部分と庇部分に分けて2段に葺く。前述の白書院が表向きの接客空間で、金地障壁画や彩色透彫の彫刻などで意匠を凝らしているのに対し、黒書院は門主の生活の場としての内向きの空間である。屋根は前者の瓦葺きに対してこけら葺きとし、内部の意匠は水墨の障壁画、土壁、面皮柱、棹縁天井などを用いた数寄屋風の造りとする。東側の一の間(11畳)、西の二の間(20畳)のほか、広敷の間、鎖の間、茶室などがある。一の間の床、棚、付書院なども草庵風の造りである。建物の東北隅は、一部を床を張らない土庇とし、外部空間を屋根内に取り込んでいる。黒書院は現在も門主の私的空間として使用されているため非公開であるが、2012年11月に初公開された。
(※Wikipediaより抜粋)

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【唐門:国宝】
桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き(ひわだぶき)・唐破風(からはふ)の四脚門(しきゃくもん)で、伏見城の遺構。彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから"日暮らし門"とも呼ばれています。

境内の南側、北小路通に南面して建つ。境内東側の御影堂門、阿弥陀堂門がそれぞれの堂への入口であるのに対し、唐門は書院(対面所)への正門である。前後に計4本の控え柱をもつ四脚門形式で、屋根は檜皮葺き、正背面は唐破風造、側面は入母屋造の「向い唐門」である。総漆塗り、各部各所を中国の許由と張良の故事を題材とした極彩色彫刻と鍍金金具で装飾しており、日暮し眺めても飽きないとされることから「日暮門」の俗称がある。場所によっては厚さ60センチメートルにもなるこれら装飾彫刻の多くがのちに付加されたものであることが修理に際して明らかにされている。金具の各所には桐紋と菊紋が打たれ、寺院の門としては華麗に過ぎるところから聚楽第の遺構とも伏見城の遺構とも伝えるが確証はない。ただ様式から言えば天正銘が発見された大徳寺唐門に比べて明らかに後の時代に属するものと考えられ、その創建は慶長期以降と推定されるから聚楽遺構説は否定される。寺の記録『元和四戌午年御堂其外所々御再興ノ記』によれば、元和3年(1617年)の寺の火災の翌年に旧御影堂門(一説には阿弥陀堂門)を「御対面処ノ東」に移築したとあるから元和3年以前に本願寺にあったことが確認でき、のちに寛永初期、御影堂再建に先立つ一連の境内整備の際に現在地に再移築したと考えられているが、そもそもこの門が最初に本願寺に現れた年代や事情ははっきりしていない。
(※Wikipediaより抜粋)

次回まで西本願寺をご紹介します。



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