夏の京都 29 曼殊院 [寺社仏閣]

前日から何とか持ち堪えていた天気も崩れてしまい、遂に雨が降り始めました。
その雨が降りだすと同時に到着したのが、この曼殊院でした。

曼殊院は京都市左京区一乗寺にある天台宗の仏教寺院で、山号はなし。
本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は是算(ぜさん)です。
竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)であり、青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられています。
国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財を保有しています。

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【勅使門】
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【北通用門】

ここから先は撮影禁止ですので、ご説明だけで。

他の天台門跡寺院と同様、最澄(767-822)の時代に比叡山上に草創された坊(小寺院)がその起源とされる。その後、12世紀頃に北山(現在の京都市右京区・鹿苑寺付近)に本拠を移し、洛中(現在の京都市上京区・相国寺付近)への移転を経て、現在地に移転したのは明暦2年(1656年)のことである。
寺伝では延暦年間(782-806)、伝教大師最澄が比叡山上に営んだ一坊がその起源とされる。円仁、安恵らを経て、10世紀後半の僧である是算の時、比叡山三塔のうちの西塔北谷に移り、東尾坊(とうびぼう)と称したという。最澄、円仁、安恵…というのは天台宗の法脈を表すもので、曼殊院の歴史は実質的には是算の時代から始まるといえる。是算の事績についてはあまり明らかでないが、花山法皇(968-1008)の弟子であったという。

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曼殊院は平安時代以来、近世末期に至るまで北野神社(現・北野天満宮)と関係が深く、歴代の曼殊院門主は北野神社の別当(責任者)を兼ねていた。通説では、曼殊院初代門主の是算が菅原氏の出身であったことから、菅原道真を祭神とする神社である北野神社の創建(天暦元年・947年)に際し別当に任命されたという。なお、是算の別当任命については、北野神社創建時ではなく、寛弘元年(1004年)、一条天皇の北野神社行幸時のこととする別説もある。北野神社の創建年とされる天暦元年(947年)と是算の没年である寛仁2年(1018年)の間には70年もの開きがあることを勘案すれば、寛弘元年(1004年)任命説の方に妥当性があると言えよう。
天仁年間(1108-1110)、是算から数えて8代目の門主・忠尋の時に、北野神社からさほど遠くない北山(現・京都市右京区)に別院を建て、寺号を「曼殊院」と改めた。別院を建設したのは、北野神社の管理の便のためと思われる。比叡山にある本坊と北山の別院とはしばらくの間、並立していたが、次第に北山の別院が主体となっていった。

そしてこの寺院で人気なものが庭園で国の名勝にも指定されています。

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建造物では、大書院、小書院、庫裏が国重要文化財に指定されています。
美術品では多くの文化財を保管しています。

国宝

【絹本著色不動明王像(黄不動)】
滋賀・園城寺(三井寺)に秘蔵される、黄不動像(平安時代前期)を元に制作された画像の1つであり、平安時代末期、12世紀頃の制作と推定されている。京都国立博物館に寄託。

【古今和歌集(曼殊院本)1巻】
色変わりの染紙に優美な和様書体で書写された古今和歌集の写本で、11世紀に遡る遺品である。高野切本古今和歌集などと並び、平安時代の仮名の名品として知られる。京都国立博物館に寄託。

重要文化財

玄関障壁画(紙本金地著色竹虎図)11面
紙本著色是害房絵 2巻
絹本著色草虫図 2幅 呂敬甫筆 
木造慈恵大師坐像
源氏物語 蓬生、薄雲、関屋 3冊 
論語総略(紙背消息)
教訓鈔及続教訓鈔 9巻
古今伝授関係資料 73種(明細は後出)
後柏原天皇宸翰後土御門後柏原両天皇詠草
紺紙金泥般若心経 後奈良天皇宸翰(安房国宛)
花園天皇宸翰御消息(7通)
花園天皇宸翰御消息(普賢形像事云々)
慈円僧正筆消息(十月五日 権少将宛 )
池坊専好立花図(42図)1帖

以上。

秋にはこのコントラストに橙色や茜色などが交じって本当に綺麗な庭になるようです。

では次回は最終回。
今回の京都の旅で最後に拝観する寺院に選んだ寺院に向かいます。


夏の京都 28 圓通寺 [寺社仏閣]

円通寺は京都市左京区岩倉幡枝町にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院。山号は大悲山で聖観音を本尊とし、円通寺庭園が国の名勝として知られています。

こんな言い方は失礼かも知れないのですが、庭以外で有名なものは【重要文化財の紙本墨書霊元天皇宸翰御消息】以外は御座いません。

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元は後水尾天皇の山荘であった幡枝御殿であり、後述する枯山水庭園もその頃に造営されたものである。修学院離宮の造営に伴い、幡枝山荘は近衛家に譲渡された。後の延宝6年(1678年)、霊元天皇の乳母であった圓光院殿瑞雲文英尼大師が開基となって寺に改め、皇室の祈願所となった。妙心寺10世の景川宗隆を勧請開山としている。
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枯山水式の庭園で国の名勝に指定されている。苔を主体に刈込みと石を配し、大小40余りの庭石は上皇となった後水尾天皇が自ら配したといわれる。また、刈込みと立木の背後に望む比叡山を借景としており、上皇は最も比叡山の眺望に優れた地を求めて、この幡枝に山荘を設けたといわれている。
とりわけ、この円通寺庭園は借景の美しさで名高い。そのため、高層マンション建築など急速に進む都市開発は、貴重な借景を壊してしまう懸念材料になると危惧されていた。そのため、京都市は円通寺庭園など借景を保護するための眺望条例(正式名称は京都市眺望景観創生条例)を制定するようになった。円通寺は同条例の対象地となり、周辺区域では高さだけでなく、屋根の形式なども制限されています。
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次回は、同じく庭園は有名な寺院をご紹介します。
これで今回の京都の旅でご紹介する寺院も残すところ後2箇所になりました。

もう少しだけお付き合いください(^^)


夏の京都 27 鞍馬寺~貴船神社 [寺社仏閣]

鞍馬寺から貴船神社へ向かう途中に出てくる建物が
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【冬柏亭】
与謝野晶子書斎、東京から移築されたものです。

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【僧正ガ谷不動堂】
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【義経堂】

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そしてようやく貴船神社界隈に到着します。


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【貴船神社鳥居】
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この景色は有名ですよね。

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貴船神社(きふねじんじゃ)は、京都府京都市左京区にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に約450社ある貴船神社の総本社である。地域名の貴船「きぶね」とは違い、水の神様であることから濁らず「きふね」というそうです。
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【本殿】

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水神である高龗神を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰された。水の神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めている。
古来より、晴れを願うときには白馬が、雨を願うときには黒馬が奉納されたが、実際の馬に代わって木の板に描いた馬が奉納されたこともあり、このことから絵馬が発祥したとも言われる。
また、縁結びの神としての信仰もあり、小説や漫画の陰陽師による人気もあり、若いカップルや女性で賑わっている。その一方で縁切りの神、呪咀神としても信仰されており、丑の刻参りでも有名である。ただし「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に貴船明神が貴船山に降臨したとの由緒から、丑の刻に参拝して願いを掛けることは心願成就の方法であり、呪咀が本来の意味では無い。平安時代には丑の刻であるかどうかは不明だが貴船神社に夜に参拝することが行われていた。時代の変遷と共に本来の意味が変質したものと思われる。
付近は京都でも有名な紅葉の名所のひとつである。

参拝して満足でした。
自転車を漕いで、歩いて軽く登山して来た甲斐がありました。

そして、この貴船地区で有名なものが
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川床になります。貴船川を覆うように川床が設置され懐石料理が食べられます。
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しかし、そんな余裕はありません。まだまだ予定があるので、ここで貴船口の自転車を救出すべくバスで向かいました。
そして、次はこの貴船口からチャリンコで30分くらいの所にある借景庭園が有名な寺院に向かいましが、それはまた次回ご紹介します。
・・・・、って、世間ではすでに秋なので、大分季節はずれになりましたがご勘弁を(^^)




夏の京都 26 鞍馬寺 [寺社仏閣]

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【仁王門】

鞍馬寺は、京都府京都市左京区鞍馬本町にある寺で、1949年まで天台宗に属したが以降独立して鞍馬弘教総本山となっています。
山号は鞍馬山。開基(創立者)は鑑真の高弟鑑禎(がんてい)とされていて、本尊は寺では尊天。「尊天」とは毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊であるという。
京都盆地の北に位置し、豊かな自然環境を残す鞍馬山の南斜面に位置する。鞍馬は牛若丸(源義経)が修行をした地として著名であり、能の『鞍馬天狗』でも知られる。新西国十九番札所である。
なお、鞍馬寺への輸送機関としてケーブルカー(鞍馬山鋼索鉄道)を運営しており、宗教法人としては唯一の鉄道事業者ともなっています。

京都市内から鞍馬寺前までは、叡山電鉄出町柳駅から鞍馬線に乗ると約30分で鞍馬駅に着きます。
駅を出て徒歩1分で仁王門(山門)に到着します。
その叡山電鉄の親会社である京阪電気鉄道では、同社との共同企画乗車券『鞍馬・貴船1dayチケット』を出町柳駅を除く京阪線系統すべての駅で発売しており、拝観の際に本券を受付に提示すると、愛山費が大人通常200円のところを優待料金で拝観出来ます・・・・

が、ここまでチャリンコと歩きで来ました。

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寺に伝わる『鞍馬蓋寺縁起』(あんばがいじえんぎ)が草創縁起を伝えており、鑑真の高弟・鑑禎が宝亀元年(770年)に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりという。
鑑禎は、鑑真が唐から伴ってきた高弟8名のうちの最年少であった。宝亀3年(772年)のある夜、鑑禎は霊夢を見、山城国の北方に霊山があると告げられる。霊山を尋ねて出かけた鑑禎は、ある山の上方に宝の鞍を乗せた白馬の姿を見る。その山が鞍馬山であった。山に入った鑑禎は女形の鬼に襲われ殺されそうになるが、あわやという時、枯れ木が倒れてきて鬼はつぶされてしまった。翌朝になると、そこには毘沙門天の像があったので、鑑禎はこれを祀る一寺を建立したという。この鑑禎の話は『鞍馬蓋寺縁起』以外の書物には見えず、どこまで史実を伝えるものかわからない。ただし、清水寺の草創縁起と同様、南都(奈良)の僧が創建にかかわったとしている点は注目される。

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【多宝塔】


『今昔物語集』『扶桑略記』など諸書には別の伝承が見られる。それによれば、延暦15年(796年)、藤原南家の出身で造東寺長官を務めた藤原伊勢人は、自分の個人的に信仰する観音を祀る寺を建てたいと考えていた。伊勢人は、ある夜見た霊夢のお告げにしたがい、白馬の後を追って鞍馬山に着くと、そこには毘沙門天を祀る小堂(上述の鑑禎が建てたもの?)があった。「自分は観音を信仰しているのに、ここに祀られているのは毘沙門天ではないか」と伊勢人はいぶかしがった。ところが、その晩の夢に1人の童子が現われ、「観音も毘沙門天も名前が違うだけで、実はもともと1つのものなのだ」と告げた。こうして伊勢人は千手観音の像をつくって、毘沙門天とともに安置し、鞍馬寺を創建したという。この伝承は『日本後紀』延暦15年(796年)の条に東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に現在の鞍馬寺からほど近い貴船神社の神が現れ鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されていることからほぼ史実であると考えられる。

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9世紀末の寛平年間(889年 - 897年)東寺の僧・峯延(ぶえん)が入寺したころから、鞍馬寺は真言宗寺院となるが、12世紀には天台宗に改宗し、以後の鞍馬寺は長く青蓮院の支配下にあった。寛治5年(1091年)には白河上皇が参詣、承徳3年(1099年)には関白藤原師通が参詣するなど、平安時代後期には広く信仰を集めていたようである。『枕草子』は「近うて遠きもの」の例として鞍馬寺の九十九(つづら)折りの参道を挙げている。
鞍馬寺は大治元年(1126年)の火災をはじめとして、たびたび焼失している。江戸時代の文化9年(1812年)には一山炎上する大火災があり、近代に入って1945年(昭和20年)にも本殿などが焼失している。このため、堂宇はいずれも新しいものだが、仏像などの文化財は豊富に伝えられている。
昭和期の住職・信楽香雲(しがらきこううん)は、1947年に鞍馬弘教を開宗。1949年には天台宗から独立して鞍馬弘教総本山となっている。
京都の奥にある鞍馬山は山岳信仰、山伏による密教も盛んであった。そのため山の精霊である天狗もまた鞍馬に住むと言われる。鞍馬に住む大天狗は僧正坊と呼ばれる最高位のものでありまた鞍馬山は天狗にとって最高位の山のひとつであるとされる。

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【本殿金堂】

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そしてここからが、鞍馬山から貴船神社への山越えになります。
山越えって?思う人もいるらしいのですが、ここから一山越えた奥にある貴船神社まで歩いていくのですよ。
その途中に奥の院などもありますが、大人の足で1時間以上は必要です。

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いざ!出陣!!

次回はここから先をご紹介しましょう。



夏の京都 25 賀茂別雷神社 [寺社仏閣]

今日ご紹介する神社も春先に断念し参拝出来なかった神社になります。
もちろん、国宝、重要文化財、そして世界文化遺産にも登録されていますので見応えは十分でした。

ではでは。

賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、京都市北区にある神社。通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されています。

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【高札所、一の鳥居】

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創建については諸説ありますが、社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝えられています。

『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝えられています。
丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。
玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られています。国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことが伺えます。

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延暦13年(794年)の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂別雷神社」として名神大社に列し、名神祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。
明治の近代社格制度でも官幣大社の筆頭とされ、明治16年(1883年)には勅祭社に定められた。

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【二の鳥居及び世界文化遺産登録案内版】
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【楽舎、細殿・橋殿・土舎:国重要文化財】

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【土舎:国重要文化財】
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【細殿:国重要文化財、及び立砂】

そして、この上賀茂神社で有名な建造物のひとつが
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【楼門:国重要文化財】

そして
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【本殿:国宝】

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【庁屋(北神饌所):国重要文化財】

他にも多くの重要文化財が建立されています。

国宝

建造物
本殿 - 1863年建造
権殿 - 1863年建造

重要文化財(国指定)

建造物
本殿権殿取合廊 - 1863年頃建造
本殿東渡廊取合廊 - 1863年頃建造
西渡廊 - 1628年建造
透廊 - 1628年建造
渡廊 - 1628年建造
祝詞舎 - 1628年建造
塀中門 - 1628年頃建造
摂社若宮神社本殿 - 1628年建造
東渡廊 - 1628年建造
四脚中門 - 1628年建造
御籍屋 - 1628年建造
神宝庫 - 1628年建造
唐門 - 1628年頃建造
東御供所 - 1628年頃建造
直会所 - 1628年頃建造
楽所及び西御供所 - 1628年頃建造
幣殿 - 1628年建造
忌子殿 - 1628年頃建造
幣殿忌子殿取合廊 - 1628年頃建造
高倉殿 - 1628年頃建造
楼門 - 1628年建造
廻廊 2棟 - 1628年頃建造
摂社新宮神社本殿及び拝殿 2棟 - 1628年建造
摂社片岡神社本殿及び拝殿 2棟 - 1628年建造
片岡橋 - 明治初年建造「谷重雄」
拝殿(細殿) - 1628年建造
舞殿(橋殿) - 1863年建造
土屋(到着殿) - 1628年建造
楽屋 - 1628年建造
外幣殿 - 1628年建造
北神饌所(庁屋。奈良神社拝殿付属) - 1628年建造
(以下は「附(つけたり)」指定物件)
末社棚尾社本殿
摂社須波神社本殿
玉橋
末社杉尾社本殿
末社土師尾社本殿

本当は出来る限り見て廻りたかったのですが、なんと駐輪場を探すのに手間取ってしまい時間が無くなってしまったのです。
だから、今回はこれくらいで(^^)
それでも最低限のものは拝観出来たと思います。

そして、次回はここから一気に北に向かいます。
天狗、義経、と言えば・・・ な場所です。



夏の京都 24 二条城 2 [城郭]

二条城の二の丸御殿唐門から先、本丸櫓門までの6棟の建造物が国宝に指定されています。

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【二の丸御殿遠侍・式台・大広間:国宝】
ここから先は撮影禁止なんで説明だけでご勘弁ください。

二の丸御殿は、東大手門から入って正面の西方に建ちます。
御殿は築地塀で囲まれていて、正門である唐門は塀の南側にあります。それをくぐると正面に二の丸御殿の玄関にあたる「車寄」(くるまよせ)が見えてきます。
二の丸御殿は手前から順に「遠侍」(とおざむらい)、「式台」(しきだい)、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」(くろしょいん)、「白書院」(しろしょいん)と呼ばれる6つの建物が雁行に並び、廊下で接続され一体となっていて、大広間の西側、黒書院の南側に日本庭園が広がっています。
遠侍の北側には「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物があります。

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【二の丸庭園入り口】
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【 二の丸御殿黒書院:国宝】
この場所で、幕末最大の出来事【大政奉還】が行われたのだと思うと、凄い事ですよね。ここで徳川幕府の権力は失われました。

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ここから先が本丸御殿になります。

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【本丸櫓門:国重要文化財】
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(※二の丸庭園は間違いで本丸庭園になります)

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【本丸御殿:国重要文化財】
本丸御殿は御所の北にあった旧桂宮邸を1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて移築したもので、徳川家の二条城とは本来無関係の建物です。
過去には春と秋に期間限定で公開されていたが、耐震性の不足が判明したため2007年(平成19年)春を最後に公開を中止して以降、内部は公開されていません。
もともとあった京都御苑内の敷地には、築地塀と表門と勅使門、また庭園や池も現存しています。本丸御殿の南には、洋風庭園があるそうです。

【天守】(※Wikipediaより抜粋)
創建時の天守は、『洛中洛外図屏風』に城の北西部分(現在の清流園の辺り)に望楼型の5重天守として描かれています。
この天守は慶長期に家康によって現在の二ノ丸北西隅に建てられたもので、大和郡山城天守の移築説があります。
記録には小天守や渡廊下の記述があり、天守曲輪を形成していたと考えられています。
この天守は3代家光の時に行われた寛永の大改修時に淀城に再び移築されました。移築された淀城天守は図面が残されているので、慶長度天守の復元は可能であったようです。これに代わり、新たに造られた本丸の南西隅に、前年に一国一城令によって廃城とした伏見城の天守が移築されました。
この寛永期天守は、取付矢倉が付属する層塔型5重5階の天守であったが、1750年(寛延3年)に落雷で焼失して以来、再建されなかったようです。
現在は、天守台のみが残る。天皇が昇った唯一の天守である。幕末には天守台に高層の火の見櫓が建てられていたことが、古写真より分かります。

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【天守からの風景】
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【本丸御殿玄関:国重要文化財】

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【北大手門(附 多門塀(外面東方、外面西方、内面東方、内面西方)):国重要文化財】
と、他にもありましたが今回はこんな感じで。

戦国時代から江戸時代、幕末、明治~現在の日本の中心であった二条城、是非一回は行く価値があると思います。


夏の京都 23 二条城 1 [城郭]

夏の京都の旅、二日目の前半で最大の目的地のひとつが、今回ご紹介する二条城です。

二条城は京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の日本の城跡です。
京都市街の中にある平城で、足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがありましたが、現在見られるものは、徳川氏によるものだそうです。
城跡全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されています。
さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されています。
徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもあるという二条城。ずっと来たかったのですが、機会がなく今回ようやく伺う事が出来ました。

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【二条城:概要案内】
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【東大手門(附 多門塀(外面南方、外面北方、内面南方、内面北方)):国重要文化財】

二条城は長年に渡り、様々な時の権力者の居城となって来ました。
室町幕府13代将軍足利義輝の居城から始まり、室町幕府15代将軍足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城。
織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。二条家の屋敷跡に設けられたための呼称と考えられる。
豊臣秀吉もこの付近に御所を構えたそうです。
そして、徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城。江戸幕府はこれを二条城と称したそうですが、朝廷側はこれを二条亭と呼んでいたそうです。

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【東門及び番所】

創建(※Wikipediaより抜粋)
慶長6年(1601年)5月:関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始、12月に西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った(天下普請)。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に中井正清が任じられた。
慶長7年(1602年)5月:御殿・天守の造営に着工。
慶長8年(1603年)3月:落成。但し、天守は慶長11年(1606年)に完成。
慶長8年(1603年)2月12日:家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城、同月25日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、27日に二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この将軍就任の手順は2年後の慶長10年(1605年)に家康の息子の2代将軍秀忠が、元和9年(1623年)に孫の3代将軍家光が踏襲するが、曾孫の4代将軍家綱以降は行われなくなった。
慶長16年(1611年):二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において家康と豊臣秀頼の会見(二条城会見)が行われる。この時、家康は秀頼の成長ぶりに驚き徳川氏の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣氏を滅ぼすことを決意したともいわれている。
慶長19年(1614年):大坂冬の陣が勃発。二条城は大御所(家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ駒を進めた。
元和元年(1615年):大坂夏の陣においては二条城に火をかけ、混乱の中で家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、徳川方についていた古田織部の家臣木村宗喜が捕縛された。このため織部は切腹、家財没収となる事件もあった。
元和5年(1619年):秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。この時の縄張(基本設計)は秀忠自らが藤堂高虎と共に行った(秀忠は2つの案から一方を最終選定しただけだが、将軍自らの縄張りであると高虎に持ち上げられたのだった)。
元和6年(1620年)6月18日:徳川和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。

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【二の丸御殿唐門:国重要文化財】

行幸(※Wikipediaより抜粋)
寛永元年(1624年):徳川家光が将軍、秀忠が大御所となった翌寛永元年から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。城域は西に拡張され、天守閣も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城の天守を移築した。作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代の19家が石垣普請を担当した。
寛永3年(1626年):行幸は寛永3年9月6日(1626年10月25日)から5日間に渡っておこなわれ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。
寛永11年(1634年)7月:秀忠死後、家光が30万7千の兵を引き連れ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。
その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延3年(1750年)には落雷により天守を焼失。さらに京の町を焼き払った天明8年(1788年)の大火の際には、飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。
寛永2年(1625年):二条城には、将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置された。
元禄12年(1699年):二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。
文久2年(1862年)閏8月:交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。

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幕末(※Wikipediaより抜粋)

万延元年(1860年):京都地震が発生し、御殿や各御門、櫓などが傾くなど、大きな被害を受けた[6]。
文久2年(1862年):14代将軍徳川家茂の上洛にそなえ、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。
文久3年(1863年)3月:家茂は朝廷の要請に応えて上洛をする。
慶応元年(1865年):家茂は再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移る。しかしここで病に倒れ、翌慶応2年(1866年)夏に死去する。
慶応2年(1866年):幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定される が、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、ようやく12月に二条城において15代将軍拝命の宣旨を受ける。
慶応3年(1867年)9月:慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す。10月には大政奉還、将軍職返上、12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。この時二条城には旗本を中心とする徳川氏直属の兵約5000、会津藩士約3000、桑名藩士約1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は若年寄永井尚志と水戸藩士約200名が守備のため残った。しかし命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で押し問答になる。この件は永井の機転で、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。
慶応4年(1868年)1月:鳥羽・伏見の戦い。大坂に召還された尚志に代わり、二条城は水戸藩士・梅沢孫太郎が留守役となっていたが、1月5日(1月29日)に朝廷(新政府)の命を受けた議定・徳川慶勝に引き渡され、太政官代が設置された。閏4月に太政官代は宮中に移転した。

今ではそのような面影もない二条城も、その昔、多くの出来事の渦中にあったのかと思うと感慨深いものがあります。
次回はそんな二条城の唐門の奥へと進んでいきます。




夏の京都 22 北野天満宮 [寺社仏閣]

今日ご紹介するのは、1月にご紹介した北野天満宮になります。
人の多さに撮影を断念したので、今回リベンジを兼ねて参拝しました。前回説明はしましたので簡単に併せてご紹介します。

ではでは

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【西回廊(外回):重要文化財】

北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「星梅鉢紋」。
通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われています。
近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めています。

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【楼門】
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【中門(三光門):国重要文化財】
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【後門:国重要文化財】

そして
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【本殿:国宝】
本殿、石の間、拝殿、楽の間(合1棟)
慶長12年(1607年)に建立されました。
入母屋造の本殿と、同じく入母屋造の拝殿の間を「石の間」で接続して1棟とする、権現造社殿です。
当神社の場合は拝殿の左右に「楽の間」が接続して複雑な屋根構成となっていて、屋根はすべて檜皮葺き。
本殿、石の間、拝殿、楽の間を合わせて1棟としており、国宝に指定されています。

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摂社の彫刻も素晴らしいものばかりでした。
そして天満宮で忘れてはいけないものが牛です。
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牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされていますが、その理由については「道真の出生年は丑年である」「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの伝承があり、どれが真実なのか、それとも全て伝承に過ぎないのかは今となっては良くわからないものの、それらの伝承にちなみ北野天満宮には神使とされる臥牛の像が多数置かれています。
伝承のうち「牛が刺客から道真を守った」というのは和気清麻呂を祭神とする護王神社や和気神社の猪の伝承との関連性が強く認められているそうです。

そして、ここ北野天満宮のもうひとつ有名なものが【梅】になります。
道真は梅をこよなく愛し、大宰府左遷の際、庭の梅に上記の和歌を詠んだことや、その梅が菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来したという飛梅伝説ができたことから梅が神紋となり、約2万坪の敷地には50種1500本の梅が植えられています。
このような菅原道真と梅との結びつきから、命日にあたる2月25日に行われる梅花祭では「梅花御供(ばいかのごく)」とよばれる特殊神饌が献供されています。
これは明治以前に太陰暦が用いられていた時代には魂を「宥める」にあやかって菜種がささげられていたが、新暦になり、梅花祭の時期が変わったために梅の花が用いられるようになったとされています。
なお、2012年現在では梅花祭における菜種は、神職が身に付け奉仕を行うという形で残されています。
この神饌では白梅と紅梅を男と女に見立て、土器の上に仙花紙を筒状に丸めて乗せ、玄米を流し入れた土台にそれぞれの梅の枝が挿し込まれ奉げられるそうです。
白梅を挿したものが42個作られこれを「男の御供」、紅梅を挿したものを33個作り、「女の御供」と呼んでいるそうです。
また、菅原道真が大宰府へ流された際に帯同した従者が薨去以後遺品を京都へ持ち帰り、鎮魂のために毎年収穫された米を奉げていたという伝承に基づき、大判御供、小判御供という形で現代においても神事が受け継がれており、その従者達の末裔である七保会の面々によって御調が行われている。

で、その梅の木から収穫されて天日干しされた梅がちょうど拝見出来ました。
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春先のご紹介よりは見やすく分かり易いのではないかと思います。
これでリベンジは達成しました!!

次回は、この旅の最大の目的地のひとつ二条城をご紹介します。撮影不可な箇所も多かったので伝わらない部分もあると思いますが、ご勘弁ください!!





夏の京都 21 平野神社 [寺社仏閣]

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【南門:京都府指定有形文化財】

平野神社は、京都府京都市北区にある神社です。
式内社(名神大社)で、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「桜」。

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【中門:京都府指定有形文化財】

京都市北部、大内裏(平安宮)北方の平野の地に鎮座しています。
古くは桓武天皇(第50代)の生母・高野新笠の祖廟として平城宮で祀られ、桓武天皇による平安京遷都に伴って大内裏近くに移し祀られたとされています。当社は皇太子守護の性格を持つ神社で、平安時代には例祭「平野祭」には皇太子自らによって奉幣が行われました。また、多くの臣籍降下氏族から氏神としても崇敬される神社でもありました。
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【拝殿:国重要文化財】

そして見たかったのが
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【本殿:国重要文化財】
本殿は4殿2棟からなり、江戸時代前期の寛永年間(1624年-1644年)の西洞院時慶による再建になります。
春日造檜皮葺の4殿には、それぞれ今木神(第一殿)、久度神(第二殿)、古開神(第三殿)、比売神(第四殿)が祀られています。
第一殿と第二殿、第三殿と第四殿はそれぞれ空殿を挟んで連結する形式を採っており、この当社独特の形式は「比翼春日造(ひよくかすがづくり)」または社名から「平野造(ひらのづくり)」と称されています。
うち第一・第二殿は寛永3年(1626年)、第三・第四殿は寛永9年(1632年)の造営になり、本殿2棟に並んで南側には摂社・縣神社1棟が鎮座しており、これら3棟の社殿は玉垣で囲まれ、祝詞舎・中門を共有しています。
また、中門の左右には回廊が接続している。これらの社殿のうち、特に本殿2棟は国の重要文化財に指定され、縣神社・中門は京都府の登録文化財に登録されています。

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小さな神社なのですが、流石京都の神社ですね。下調べした甲斐がありました!!

次回はこの神社よりちょっとだけ南に進んだ場所にある全国的にも有名で世界文化遺産にも登録されている神社に向かいます。


夏の京都 20 妙心寺 [寺社仏閣]

今日ご紹介する寺院は、今年のお正月に何も知らずに通り過ぎてしまった寺院になります。

妙心寺、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院で、山号を正法山。
本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。
日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占めています。
近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には塔頭の数が46という多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成しているので有名。
平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている巨大な寺院です。

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【南門】慶長15年(1610年)建立。
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【勅使門:国重要文化財】慶長15年(1610年)建立。
平生は閉じられていますが、妙心寺住持の入山・晋山時に新住職はこの門より入られます。

そしてここから先の建造物がどれも巨大なんです。
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【山門:国重要文化財】
慶長4年(1599年)建立。五間三戸(正面の柱間5間のうち中央3間が通路)の二重門(2階建門)で、上層には円通大士(観音)と十六羅漢像を安置しています。

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【浴室:国重要文化財】明暦2年(1656年)の建立。
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【仏殿及び法堂:国重要文化財】
仏殿:他の諸堂より新しく、文政10年(1827年)に建立されました。入母屋造、一重裳階付き。
法堂:明暦2年(1656年)の建立。入母屋造、一重裳階付き。

本当は1棟毎に撮影したかったのですが盆飾りが施されていたので、今回はこんな感じでお願いします。

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【経蔵:国重要文化財】寛文13年(1673年)の建立。

そしてこの周りにある寺院が以下のとおりです。

山内塔頭

龍泉庵 - 長谷川等伯筆「枯木猿猴図」所蔵(実物は京都国立博物館に寄託)。
衡梅院
長興院 - 滝川一益が創建。
養源院
東海庵 - 庭園は史跡・名勝に指定。方丈前庭は築地塀で囲まれた一画に白砂を敷き詰め、帚目を付けただけのシンプルな庭。書院南庭は白砂に7個の石を並べた抽象的な庭である。
玉鳳院 - 花園天皇の離宮跡に建つ。関山慧玄像を祀る開山堂(別名微笑庵、重文)は室町時代の建築。庭園は史跡・名勝に指定。
東林院 - 枯山水庭園、水琴窟が見られる。沙羅双樹の花が咲く時期の特別公開で知られる。
大心院
雑華院
福寿院
如是院
海福院 - 福島正則開基。夬室智文開祖。公家町尻家(福島正則縁者)菩提寺。
養徳院
大雄院
桂春院 - 杉苔とツツジの植え込みが見どころの庭園は史跡・名勝に指定。
蟠桃院 - 前田玄以が創建。伊達政宗が大檀越に加わり伊達家菩提寺となる。
長慶院- 豊臣秀吉の正室である北政所の妹長慶院(木下家定娘)が創建。
雲祥院
光国院
隣華院 - 脇坂安治が創建。長谷川等伯筆方丈襖絵「水墨山水図」(国の重要文化財)、狩野永岳筆襖絵を所有。
智勝院 - 稲葉貞通が創建。
麟祥院 - 春日局開基の菩提寺、海北友雪筆方丈襖絵を所有。
大通院 - 一柳直末が創建。山内一豊夫妻霊屋がある。
天球院 - 寛永8年(1631年)池田輝政の妹天球院が創建。狩野山楽・山雪らが描いた方丈障壁画152面あまりが重要文化財。
金牛院
寿聖院
天祥院
春光院 - 堀尾吉晴が創建。重要文化財の南蛮寺(なんばんじ)の鐘と狩野永岳の方丈襖絵を所有。
徳雲院
大龍院 - 中村一忠が創建。
大法院 - 松代藩主・真田信之の菩提寺。兵法学者佐久間象山の墓(非公開)がある。
玉龍院 - 生駒一正が創建。
通玄院
霊雲院 - 枯山水庭園は史跡・名勝に指定。
聖沢院 - 国の重要文化財摩利支天画像を所蔵する。
天授院
退蔵院 - 日本の初期水墨画の代表作である如拙筆の国宝「瓢鮎図」を所有する(京都国立博物館に寄託)。
慈雲院
以上のうち常時一般公開しているのは退蔵院、桂春院、大心院のみ

境外塔頭

慧照院(右京区花園坤南町)
龍華院(右京区花園坤南町)
春浦院(右京区花園坤南町) - 室町時代の絵巻物で重要文化財の「福富草紙(ふくとみぞうし)」(土佐派の絵師・土佐行広周辺の作)を所蔵
金台寺(北区等持院西町)
仙寿院(右京区竜安寺衣笠下町)
多福院(右京区竜安寺衣笠下町)
龍安寺(右京区竜安寺御陵ノ下町)
霊光院(右京区竜安寺御陵ノ下町)
大珠院(右京区竜安寺御陵ノ下町)
西源院(右京区竜安寺御陵ノ下町

こんな感じなのです。
廻れません。この日は他にも沢山の予定がありましたので、今回は見送りで次回新春に予定していますので、その時にでもご紹介します。

次回は、ここから程近い場所にある神社をご紹介します。


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