夏の京都 19 西本願寺 2 [寺社仏閣]

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【大玄関:国重要文化財】
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【大玄関門】

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【唐門彫刻】

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【阿弥陀堂:国宝】
宝暦10年(1760)再建。東西42メートル、南北45メートル、高さ25メートル。中央に阿弥陀如来の木像、左右にインド・中国・日本の念仏の祖師七師と聖徳太子の影像が安置されています。

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【阿弥陀堂門:国重要文化財】

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【太鼓楼:国重要文化財】

と、いった感じで兎に角巨大な伽藍です。
国宝も重要文化財も多く、見学時間としては1時間半~2時間は欲しい場所ですね。

次回は妙心寺をご紹介します。





夏の京都 18 西本願寺 1 [寺社仏閣]

パソコン復活後、一回目の寺社仏閣のご紹介は、世界文化遺産にも登録されている寺院【京都、西本願寺】にします。
春に1度ご紹介しましたがイマイチな写真ばかりでしたので、撮り直しました。
詳細は前回の記事で(^^)
(※http://transit2012transit.blog.so-net.ne.jp/2014-01-08-1
とは思ったのですが、やはり酷いので再度作り直します。

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【御影堂門:国重要文化財】

西本願寺は、京都市下京区にある仏教寺院で、浄土真宗本願寺派の本山です。山号は龍谷山。西本願寺は通称であり、正式名称は「龍谷山 本願寺」、宗教法人としての名称は「本願寺」です。
京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれていて、真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」・下京区)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多いようです。

個人的に、今までそれなりに全国を廻って今のところ、一番好きな鐘楼がここ西本願寺の鐘楼です。
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【鐘楼:国重要文化財】
この翠色を使用している所が個人的には評価しています。鐘楼って、彫刻は素晴らしくても、ここまで気合を入れて建造している寺院は、今のところお目にかかっていません。

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【飛雲閣:国宝】
こちらは特別拝観時以外は非公開なので、撮影出来る2階部分のみですが・・・。金閣、銀閣と共に京都三閣になります。ちなみに豊臣秀吉が建築した【聚楽第】の遺構としても有名です。

境内南東隅の滴翠園(てきすいえん)内、滄浪池(そうろうち)と名付けられた池に面して建つ、3階建の庭間建築である。江戸時代の絵図には「御亭(チン)」として現れる。3階建であるが、各階は平面の大きさを変え、屋根などの意匠も左右相称を避け、変化に富んだ外観をもつ。寺に遺る江戸初期の文書『紫雲殿由縁記』(寛永15年成立、延亨4年増修)には豊臣秀吉の遺構だと記されていることから聚楽第の遺構との説も広く流布したが確証はなく、様式的にもやや新しく建築史からは否定的意見が多い。一方その1階平面が大書院対面所に共通するから寛永期に本願寺により建てられたのではないかとする説も唱えられたが(平井聖)、飛雲閣1階は一列型書院造の形を示し、一方対面所は3列型で先に触れたように真宗の本堂建築のスタイルを踏襲していると考えられるから両者が似るとするのは無理があり、さらに建築時期、建築理由など十分な説得性にも乏しく定説とは言えない。近年付属建物である黄鶴台から「寛永五年三月から寛永六年八月迄‥」という墨書が発見され(鶴岡典慶報告)、これが移築の時期を示すのではないかとの推測から、秀吉の京都新城、のちの高台院屋敷の「アコセガ池」畔から、後水尾上皇の仙洞御所造営(寛永4年着手)に先立ち解体撤去され、本願寺に移築された建物との説も登場した。 1階は池から船で直接建物内に入る形式の船入の間、上段・上々段を設けた主室の招賢殿、下段の八景の間、茶室憶昔席(いくじゃくせき)などがある。舟入の間は書院造の「中門」に当たり、ここ以外に正式な入り口は見当たらない。本来障壁画で飾らるべき上段床の間背面の壁が大障子となっている点や上段が部屋の中心軸上になく北側に寄っている点が特異である。柱や長押は角材を使っており数寄屋の手法は見られないが、これら上段や上々段には数寄屋の趣きが濃厚である。憶昔席の部分のみは建築年代が明確で、寛政7年(1795年)、茶人藪内竹蔭らによって増築されたものである。2階歌仙の間は、西側8畳の上段、東側16畳半の下段からなり、上段背面の壁には1階招賢殿と同様障壁画はなく窓が開けられている。隅には喫茶の用に供したものと推測される丸炉が切られている。下段三方の板戸の内外には御簾の下に座す三十六歌仙の像(現状は三十四歌仙)を華やかに描き、天井は金具に飾られた格天井、長押も格調高く打ちまわしており、総じて御殿風の趣きがある。3階は摘星楼と名付けた8畳で、長押は打たず天井も低い草庵風の意匠となっている(ただし天井は鏡天井)。奇木を床柱にした一畳の出床が設けられているがこれは後補。各階の主開口部はいずれも北に開けられており、特に1階の書院が南側に全く開口部をもたないのは書院造としては他に例がなく、また我が国の住宅建築の原則からも外れている。このことが元々南向きであったのではないかとの推測を生み、先に述べた「移築説」の根拠の一つとなっている。なお、元禄時代の状況を示すと考えられる1階平面図(本善寺所蔵)により、現況では北縁側(入り側)に設けられている腰障子はなかったと判り、当初の北立面は今より凹凸に富んでいたと考えられている。 飛雲閣は原則非公開であるが、外観のみ期日を限って特別公開される。また毎年5月21日の宗祖降誕会の際には室内に茶席(有料)が設けられる。
(※Wikipediaより抜粋)

文永7年(1272)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたのですが、その後比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転しました。
境内は国の史跡に指定され、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されています。

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【国宝:御影堂】
寛永13年(1636)建立。東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートル。中央に親鸞聖人の木像、左右に本願寺歴代門主の御影を安置し、重要な行事は、この御堂で行われます。

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【書院:国宝】

書院(対面所及び白書院) 御影堂の南西に位置する。近世書院造を代表する建築の一つである。入母屋造妻入り、本瓦葺きで、平面規模は桁行(本建物の場合は奥行)38.5メートル、梁行(間口)29.5メートル。南側の対面所と北側の白書院から成るが、両者は元来別々の建物であった。本建物を豊臣秀吉の伏見城の遺構とするのは俗説で、実際は後述のとおり江戸時代に西本願寺自身により建てられた建物である。 対面所の主室は欄間に雲と鴻(コウノトリ)を透彫りにするところから、「鴻の間」とも呼ばれる。広さは下段のみで162畳、上段を含め203畳、天井は格天井とする。襖、壁等の障壁画は本願寺お抱え絵師の渡辺了慶の筆と推定されている。正面奥(北側)は東西方向に長大な上段とし、中央に大床(おおどこ)、左に帳台構を設ける。上段の東には床高をさらに一段高めた上々段があり、違い棚と付書院を設ける。能舞台を持つ広庭に南面する広大なスペース、無目敷居による下段の三列二段の区画など、住宅建築としての書院造から儀式空間である対面所に特化した書院造の姿を見せる。この広大な平面については、真宗の本堂建築を基本に、その内陣に代えて上段、上々段、帳台構など書院造の要素を付加したものとの指摘もある。この対面所の西側には控えの間である雀の間、雁の間、菊の間があり、北側には納戸2室を挟んで白書院がある。白書院は西から東へ三の間、二の間、一の間(紫明の間)からなる。一の間には変形10畳の上段があり、床、棚、付書院、帳台構を備える。なお、対面所と白書院三の間は、畳を上げると板敷きで、能舞台としても使用できるように工夫されている。 寺の文書によれば、対面所は元和3年(1617年)の火災で失われた対面所に代わって火災の翌年に再建された建築で、当初は現御影堂付近に東向きに建てられていたが、御影堂再建に先立ち寛永7年(1630年)に元和焼失以前に対面所が建っていた現在地に90度向きを変えて移築された。このことは1969年に行われた半解体修理の際に発見された小屋組の梁の番付墨書によりはじめて確認された。この移転と同時に西側に雀の間などが増築されたと考えられ、のちに(安永6年か)北側に別棟であった白書院を移築合体させた。東縁側に面して枯山水の「虎渓の庭」が設けられている。 書院は原則非公開。期日を限って特別公開が行われる場合があるが、それ以外の時期の拝観には事前の許可が必要である。(詳細は下記「拝観」の項を参照) 黒書院及び伝廊 黒書院は書院の北東に位置し、伝廊とともに国宝に指定されている。桁行21.5メートル、梁行13.9メートル。寺の記録から明暦3年(1657年)の建立とわかる。屋根は寄棟造、こけら葺きで、主屋部分と庇部分に分けて2段に葺く。前述の白書院が表向きの接客空間で、金地障壁画や彩色透彫の彫刻などで意匠を凝らしているのに対し、黒書院は門主の生活の場としての内向きの空間である。屋根は前者の瓦葺きに対してこけら葺きとし、内部の意匠は水墨の障壁画、土壁、面皮柱、棹縁天井などを用いた数寄屋風の造りとする。東側の一の間(11畳)、西の二の間(20畳)のほか、広敷の間、鎖の間、茶室などがある。一の間の床、棚、付書院なども草庵風の造りである。建物の東北隅は、一部を床を張らない土庇とし、外部空間を屋根内に取り込んでいる。黒書院は現在も門主の私的空間として使用されているため非公開であるが、2012年11月に初公開された。
(※Wikipediaより抜粋)

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【唐門:国宝】
桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き(ひわだぶき)・唐破風(からはふ)の四脚門(しきゃくもん)で、伏見城の遺構。彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから"日暮らし門"とも呼ばれています。

境内の南側、北小路通に南面して建つ。境内東側の御影堂門、阿弥陀堂門がそれぞれの堂への入口であるのに対し、唐門は書院(対面所)への正門である。前後に計4本の控え柱をもつ四脚門形式で、屋根は檜皮葺き、正背面は唐破風造、側面は入母屋造の「向い唐門」である。総漆塗り、各部各所を中国の許由と張良の故事を題材とした極彩色彫刻と鍍金金具で装飾しており、日暮し眺めても飽きないとされることから「日暮門」の俗称がある。場所によっては厚さ60センチメートルにもなるこれら装飾彫刻の多くがのちに付加されたものであることが修理に際して明らかにされている。金具の各所には桐紋と菊紋が打たれ、寺院の門としては華麗に過ぎるところから聚楽第の遺構とも伏見城の遺構とも伝えるが確証はない。ただ様式から言えば天正銘が発見された大徳寺唐門に比べて明らかに後の時代に属するものと考えられ、その創建は慶長期以降と推定されるから聚楽遺構説は否定される。寺の記録『元和四戌午年御堂其外所々御再興ノ記』によれば、元和3年(1617年)の寺の火災の翌年に旧御影堂門(一説には阿弥陀堂門)を「御対面処ノ東」に移築したとあるから元和3年以前に本願寺にあったことが確認でき、のちに寛永初期、御影堂再建に先立つ一連の境内整備の際に現在地に再移築したと考えられているが、そもそもこの門が最初に本願寺に現れた年代や事情ははっきりしていない。
(※Wikipediaより抜粋)

次回まで西本願寺をご紹介します。



パソコンが・・・ [ひとり言]

パソコンが急に動かなくなりブログも更新できなくなっていました。
やっとウイルス?とか、変なものがダウンロードされていたらしく、知り合いに色々操作してもらい回復してくれて今日から再開です。

一応、最近の出来事だと・・・
暇があれば鎌倉に行っていたって事くらいですね。もう今年になって鎌倉は何回行ったかわかりません。
そして、姉が上京してJ:comオンデマンドで【最後から二番目の恋】シリーズを見て、さらにヒートアップ(^^)

明日から、また再開したいと思います。


夏の京都 17 興正寺 [寺社仏閣]

2日目一箇所目は京都駅からほど近い場所にある【興正寺】です。

興正寺は、京都府京都市下京区にある浄土真宗の寺院で、山号は円頓山。
西本願寺の南隣に位置しています。
かつて西本願寺の脇門跡であったそうですが、明治9年(1876年)に真宗興正派として独立した際に、同派の本山となりました。
住職は門主の華園家。本山だけあって大伽藍なのですが、壮大な西本願寺の南に隣接しているため、一見西本願寺の伽藍の一部だと勘違いする人もいます。
また西本願寺の御影堂があまりに大きいため、興正寺の伽藍が比較的小さく感じられるのですが、実際には堂々とした大規模で伽藍です。

では、そんな興正寺をご紹介していきましょう。

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【山門】
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【阿弥陀門】

そして境内は
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承元元年(1205年)専修念仏は停止され、浄土真宗の宗祖である親鸞は越後に配流されたが、建暦元年(1211年)に赦免されました。
寺伝によると、親鸞は赦免された翌年の建暦2年(1212年)に京都に帰り、山城国山科郷に一宇を創建し「興正寺」と名づけたとし、その後、親鸞はこの寺を弟子の真仏上人(第2世)にまかせ、阿弥陀仏の本願をひろめるため関東行化に旅立ったとされています。
順徳天皇から聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜り、これより寺号を「興正寺」とし真宗念仏宣布の根本法城としたといいますが、真仏は親鸞が関東教化に遊行した際に下野国(現在の栃木県)に建てた専修寺を任されているなど、親鸞が山科に興正寺を建てたとするには根拠に乏しく、一般的には越後より直接関東方面へ旅立ったとする説が有力だそうです。
興正寺の寺伝では、第7世了源によって事実上創建されたとみなされるが、実際には、京都の五条西洞院にあった親鸞の住坊を元亨元年(1321年)頃に、了源が移転するなどして寺院として開いたのではないかと言われています。

嘉暦3年(1328年)前後、了源は、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都に移すべく寺基を洛東の汁谷に移し、光明本尊・絵系図・交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れたそうです。
この頃「阿弥陀佛光寺」の勅号を後醍醐天皇より賜る。この寺号は、後醍醐天皇が東南の方向から一筋の光が差し込むという夢を見たという場所に、興正寺の盗まれた阿弥陀如来の木像が出てきたという霊験に由来し、これを縁に山科より洛東渋谷に寺基を移したとも言われています。

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【御影堂】
その後、佛光寺は益々隆盛となったが、それとともに天台宗・延暦寺の弾圧が強まった。第13世光教の時には応仁の乱に巻込まれ諸堂を焼失。さらに文明13年(1481年)には、14世を継ぐべき経豪(後の蓮教)が本願寺の蓮如に帰依し、山科西野に再び「興正寺」として創建、有力末寺と共に当時山科にあった本願寺に帰参した。当時あった48坊のうち42坊が本願寺に帰属した。残された佛光寺は経豪(蓮教)の弟の経誉が継ぐが、寺勢は急激に衰え、代わって本願寺が台頭するところとなる。

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【阿弥陀堂】

蓮教は蓮如と力をあわせて念仏弘通に奔走したが、天文元年(1532年)8月、山科本願寺と共に兵火にかかって興正寺は焼失してしまいます。
永禄12年(1569年)、興正寺に本願寺顕如の次男顕尊が入寺し、石山本願寺の脇門跡に任ぜられる。
天正13年(1585年)第15世蓮秀は幸いにつつがなきをえた真影を供奉して、天台宗の寺があった大阪天満の地に、広大な堂舎を配した天満本願寺と共に真宗興正寺として法燈をかかげた。
天正19年(1591年)第17世顕尊の時に、豊臣秀吉による都市計画の一環で、本願寺と共に寺基を再び洛中の七条堀川に移す。この寺地にはその昔、時宗市屋派本寺の金光寺があったそうです。

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このように蓮教以来、興正寺は本願寺と行を共にしていたが、明治9年(1876年)、第27世本寂(華園摂信)は興隆正法の実を挙げるべく、真宗興正派として独立した。ただし本願寺派に残留した興正寺末寺も少なくなかった。
本堂は起工から128年の年数をかけ、日光東照宮の本廟・知恩院の三門とともに、日本三建築の一つと称せられた壮大華麗な大伽藍であったそうなのですが、明治35年(1902年)11月、不慮の火災により、本堂その他ほとんどを灰燼に帰する不幸が起きてしまいます。
第28世本常(華園沢称)は直ちに再建の工を起こし、明治45年(1912年)、現在の両堂大伽藍が同寺地に完成したそうです。結果、国の登録有形文化財を始め、重要文化財、国宝は保有していないのが残念。
しかし歴史はとても深く、一見の価値は十分にあります。

次回は隣接する巨大な伽藍をもつ【西本願寺】をご紹介します。


夏の京都 16 宝塔寺 [寺社仏閣]

萬福寺から京都駅まで自転車で帰っている途中に見かけた寺院でした。
予定では入っていなかったのですが、文化財の保有している寺院ではあったので、立ち寄る事とに。
ではではご紹介していきましょう。

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【四脚門:国重要文化財】
室町時代に建立。

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【山門】

宝塔寺は京都府京都市伏見区にある日蓮宗の寺院で、山号は深草山。旧本山は、大本山妙顕寺。奠師法縁。
日像が京都の七口(京都に入る7つの街道の入口)に建立した題目石塔の1つを日像の廟所に祀ったことによります。
平安時代に藤原基経の発願により創建され源氏物語にも言及される極楽寺が前身でした。

そして、本堂になります。
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【本堂:国重要文化財】
慶長13年(1608年)建立されたもので、入母屋造、本瓦葺き。
桁行七間、梁間五間。釈迦如来像、十界曼荼羅のほか、日蓮と日像の像を安置しています。

藤原基経が発願した極楽寺が宝塔寺の前身とされている。極楽寺は基経の没後、嫡子の藤原時平により899年(昌泰2年)建立されたもので、『源氏物語』「藤裏葉」帖に寺名が言及されている。
鎌倉時代末期、京都で布教にあたっていた日像は当時の極楽寺の住持・良桂と法論を行ったと言われています。
良桂は日像に帰依し、真言律宗寺院であった極楽寺は延慶年間(1308 - 1311年)日蓮宗に改宗しました。
興国3年/康永元年(1342年)日像は妙顕寺で入寂、遺言により当寺において荼毘に付されました。
寺は1467年(応仁元年)応仁の乱で焼失後、長らく再建されなかったのですが、1590年(天正18年)8世日銀が伽藍を再建しました。

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【多宝塔:国重要文化財】
室町時代に建立されたもので、京都市内の多宝塔では最古のものとさてれいます。行基葺という非常に珍しい瓦屋根が特徴的です。
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【奈良の元興寺:l国宝】(※2014年1月4日撮影)
上記のように、2月にご紹介した寺院の中では奈良の寺院で世界文化遺産にも登録されている【元興寺】でも見られます。
これを見れただけでも十分価値はありますね。

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この階段を登って行くと、他にも以下のようなものがあるらしいのですが時間もなかったので断念。

昭宣堂 - 昭和16年(1941年)建立。前身寺院極楽寺の開祖藤原基経(昭宣公)の宝篋印塔を安置する。
七面堂 - 寛文6年(1666年)に勧請された七面天女を祀る。
日像廟 - 日像は興国3年/康永元年(1342年)日像は妙顕寺で入寂し、当寺に葬られた。題目笠塔婆を安置する。
三十番神堂
千仏堂

今年の年末年始も一応、伏見、宇治、大原を含め、滋賀県を6日間かけて巡りますので、その時に機会があれば(^^)

一応、ここまでが夏の京都の旅1日目になります。明日から2日目になります。
明日以降はこれまた有名な寺院などが続きますが、ご紹介する寺院は以下の場所になります。

妙心寺【国宝、重文】
平野神社【重文】
北野天満宮【国宝、重文、世界文化遺産登録】
上賀茂神社【国宝、重文、世界文化遺産登録】
二条城【国宝、重文、世界文化遺産登録】
西本願寺【国宝、重文、世界文化遺産登録】
鞍馬寺【国宝、重文、史跡】
曼殊院(門跡)【国宝、重文】
円通寺【重文、名勝】
修学院離宮
永観堂禅林寺【国宝、重文】
貴船神社
興正寺
南禅寺【国宝、重文】

後半も見所満載なんで長いですがお付き合いくださると幸いです(^^)


次回は、興正寺から始まります。


yuming×帝国劇場 「あなたがいたから、わたしがいた」  [松任谷由実]

行ってきました(^^)
いやぁ、舞台は兎も角、ユーミンは最高でした。

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楽曲はこちら。


夏の京都 15 萬福寺 4  [寺社仏閣]

今日が4回目になる萬福寺の記事。
昨日までも重要文化財建造物をご紹介してきましたが、今回も多くの建造物をご紹介します。

最初は
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【斎堂:国重要文化財】
食堂であり、緊那羅王像を安置する。斎堂前には開梆(かいぱん、「ぱん」は木偏に邦)という巨大な木製の魚が吊り下げられている。これは叩いて食事や法要の時間を知らせるためのものであり、木魚の原型と言われている。開版、魚梆、飯梆などとも書く。

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【伽藍堂:国重要文化財】
関聖大帝菩薩(関羽)を安置し背後に華光菩薩を安置しています。ただし、華光菩薩の像は、関帝ではなく、明代まで盛んに祀られていた、道教における馬元師、仏教では華光と呼ばれる武神であるという説もあります。
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【回廊(附):国重要文化財】
もちろんこちらの回廊も重要文化財になります。

そして最後にご紹介するのが松隠堂になります。
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【通玄門:国重要文化財】
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【開山堂:国重要文化財】
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【松隠堂客殿:国重要文化財】

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本当に巨大な伽藍です!! 
しかも中国式にこだわった様式が本当に良い味を出していました。
個人的には全国廻っている寺院の中でもBset10に入る寺院でした。

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次回はこの寺院の隣の頭塔をご紹介します。

夏の京都 14 萬福寺 3 [寺社仏閣]

萬福寺 3回目は大雄宝殿からご紹介します。

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【大雄寶殿:国重要文化財】
寛文8年(1668年)の建立。日本の一般的な寺院の「本堂」「仏殿」にあたる建物であり入母屋造。
2階建てに見えるが一重裳階(もこし)付きです。
本尊釈迦三尊像(脇侍は阿難と迦葉)、十八羅漢像を安置する。建物の前には白砂を敷いた「月台」があります。

この建造物の窓も見所。
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様々な種類の窓を用いているのもこの萬福寺の特徴です。
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【大雄寶殿(後姿)】
ちなみにこの後姿が今年の【 JR東海 そうだ京都行こう 】のポスターの使用されています。
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こんな感じです(^^)僕の写真だとイマイチですが、やはりプロの写真家が撮ると行きたくなりますね!!

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【回廊:国重要文化財】

そして拝観出来る敷地内で一番奥にあるのが次の法堂になります。ちなみに先ほどのポスターの中の家族で座禅をしている建造物になります。
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【法堂:国重要文化財】
寛文2年(1662年)の建立。一重入母屋造。


夏の京都 13 萬福寺 2 [寺社仏閣]

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【天王殿:国重要文化財】
寛文8年(1668年)の建立で一重入母屋造。
本堂の手前にこのような堂を置くのは中国式の伽藍配置で、日本では非常に珍しい配置になります。
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内部には弥勒菩薩の化身とされる布袋像を安置されています。この像は日本で著名な半跏思惟形の弥勒菩薩像とは全く異なり、太鼓腹の布袋像として表されている。
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【持国天】【増長天】【多聞天】【広目天】
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【韋駄天像】
他に堂内左右に四天王像、布袋像の背後に韋駄天像を安置しています。
これらの像は来日していた明の仏師・范道生の作で、いずれも中国風の様式で造られているのも見所。

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【鐘楼:国重要文化財】
2階建てで、階上に梵鐘を吊る。鐘楼前には偈(げ)の書かれた巡照板が下げられています。
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【鼓楼:国重要文化財】
鐘楼と対称位置に建ち、階上に太鼓を安置している日本では珍しい建造物です。
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【壽塔:国重要文化財】
詳細不明。
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【東回廊:国重要文化財】
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【中和庭】
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【鐘楼】

どうでしょう、本当に重要文化財が満載なんです。日本の歴史を紐解く上で非常に重要な建造物が31棟もあるのですから、見所も満載なはずです。ただ公開していない建造物等も多くありますけど、次回はこの寺院の真髄に入っていきます。



yuming×帝国劇場 「あなたがいたから、わたしがいた」 本日参加。 [松任谷由実]

今日
yuming×帝国劇場 「あなたがいたから、わたしがいた」 を見に行きます。

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正直、前回もどうしようかと思ったのですが、ライブとは違うユーミンを見られるのも少ないので今回も最速抽選でゲットしました。
大好きなユーミンに、好きな比嘉愛未も出るので、今回も非常に楽しみです。
さぁて、どんな舞台になるのか・・・楽しみです。





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