みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 45 立石寺 ③ [寺社仏閣]

山形の山寺こと【立石寺】、いよいよ山門を入って行きます。

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今からこんなにもの建造物を見て廻ります。

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【仁王門】

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【性相院】
仁王門からのぼると性相院となります。昔は山上にあった十二支院の一つで慈覚大師作と伝えられる阿弥陀如来を本尊とし運慶作の毘沙門天を安置し、明治元年に山の善行院、極楽院を合併され現在に至ります。

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【金乗院】
十二支院の一つで、延命地蔵菩薩を本尊とし、ほかに千体・不動明王を安置しており、寺は天保十一年(1840年)三月、澄明旭海によって再建されました。

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【如法堂】
奥之院は通称で、正しくは「如法堂」といいます。慈覚大師が中国で持ち歩いていたとされる釈迦如来と多宝如来の両尊を御本尊とする如法堂は、参道の終点にあるので「奥之院」と呼ばれています。

この道場で慈覚大師が初められた石墨草筆・一字三礼の如法写経行が護られています。また如法堂左側の大仏殿には、像高5メートルの金色の阿弥陀如来が安置され、宗派を問わず供養に数多くの人が訪れます。

如法堂には多くの絵馬が納められています。この絵馬は、結婚式の場面、学童の手を引く両親の姿などが描かれています。中には子供の写真や着飾った人形なども奉納されています。

これらの絵馬は「むかさり絵馬」と呼ばれ、不幸にして結婚前に亡くなった若者の霊を弔い、また小学校にも入学せず夭折した我が子のために、せめてあの世で好きな人と添わせてあげたい、子供が楽しみにしていた入学式に連れて行ってやりたいとの親の願いから納められた絵馬です。

一応、ここが山寺の最上部にある寺院になります。
紹介すると淡々としていますけど、意外と傾斜のある階段を上り続けますので大変でした(^^)
ちなみに石段の数は1050段だそうです。実際にもそれくらいだったと思います。キツイ!
しかし、九州で今度行こうと思っている寺院は3,333段らしいのです。これくらい楽ちんな方なのでしょう。

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振り返ると、ずっと下まで紹介した寺院が続いています。これからまだまだ見所をご紹介しています。



みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 44 立石寺 ② [寺社仏閣]


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前回の続き。
山形県の立石寺の境内。根本中堂の先に今の石碑があります。十分文化財の価値がありそうです。

立石寺の創建について、寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したそうです。
当寺の創建が平安時代初期(9世紀)にさかのぼることと、円仁との関係が深い寺院であることは確かであるが、創建の正確な時期や事情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらにさかのぼるものと推定されています。

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『立石寺記録』(立石寺文書のうち)は、「開山」を円仁、「開祖」を安慧(あんね)と位置づけており、子院の安養院は心能が、千手院と山王院は実玄が開いたとされています。
安慧は円仁の跡を継いで天台座主となった僧であり、心能と実玄は円仁の東国巡錫に同行した弟子であったそうです。
安慧は承和11年(844年)から嘉承2年(849年)まで出羽国の講師の任にあり、東国に天台宗を広める役割をしたことから、立石寺の実質的な創立者は安慧であるとする説も。また、円仁が実際に東国巡錫したのは天長6年(829年)から9年(832年)のこととされ、この際、弟子の心能と実玄をこの地に留め置いて立石寺の開創にあたらせたとの解釈も出ています。

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又、立石寺には貞観2年(860年)12月の日付をもつ『円仁置文写』が伝わるが、この文書は必ずしも寺の創建年次を示すものではないらしく、この文書自体が後世の仮託とする説もあるそうです。
貞観2年(860年)には、円仁は当時としては高齢の60歳代で、しかも天台座主の高位にあったため、この時期に円仁が実際に今の山形県に出向いて立石寺を建立したということは、年齢と地位の両面から、文字通りの史実とは考えがたく、円仁の意を受けた安慧らによって9世紀半ば頃から徐々に寺観が整えられたとみるのが穏当である。
なお、根本中堂に安置されている木造毘沙門天立像は、近年の調査によって9世紀頃の作であることが判明しており、円仁とみられる頭部のみの木彫像と同様、立石寺創建期の一例に加えられる。また、胸甲の上で甲締めの結び目を表していることや細い腰帯の下に幅広の腰帯を着けるなど珍しい甲制となっているが、これらは東北地方の神将形の作例にしか見られないもので、平安時代には同種の作例がある寺院との間に繋がりがあったことを示唆させる特徴を持つ点でも注目に値する作品だとも言えるようです。

何とも奥深い山寺の奥深い話でした。

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この先山門をくぐって奥の院、そしてあの場所へと進んで行きます。



みちのく四大名刹廻廊と出羽三山を巡る旅。 43 立石寺 ① [寺社仏閣]

今回の東北地方南部の旅行のブログ紹介も、京都と奈良の旅行までは長くなくても40回を越えてしまいました。
そして、今回からの記事が最終目的地になります。

最終目的地は、山形県の【山寺】こと立石寺。
みちのく四大名刹回廊の最終御朱印所。ざっと数えても15箇所以上の名所があるようです。
長くなりますけど、もう少しだけお付き合い下さい。

では(^^)
先ずは参道を歩いてきます。

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松尾芭蕉が奥の細道でここまで来たそうです。いよいよ境内です。

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最初に出て来るのが

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立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある天台宗の寺院で、山号は宝珠山。
本尊は薬師如来。山寺(やまでら)の通称で知られ、古くは「りうしゃくじ」と称した。寺号は詳しくは宝珠山阿所川院立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじ)と称する。
古来、悪縁切り寺として信仰を集める。蔵王国定公園(第2種特別地域)に指定されている。

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【国の重要文化財:根本中堂】
根本中堂は立石寺という御山全体の寺院の本堂に当たる御堂です。
現在の根本中堂は延文元年(1356年)初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造・五間四面の建物で、ブナ材が全体の6割程用いられブナ材の建築物では日本最古といわれます。
堂内では、本尊として慈覚大師作と伝えられる木造薬師如来坐像をお祀りし、脇侍として日光・月光両菩薩と十二支天、その左右に文殊菩薩と毘沙門天を拝することができます。

また、伝教大師が灯し比叡山より分けられた法灯を建立当時以来一千百数十年の間一度も消えることなく仏法の護持を示す光としてお護りしてきました。過去に織田信長に焼討で本山延暦寺の法灯が消えた際、再建時には逆に立石寺から分けたといわれています。

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どこにもまして、モクモクでした!! 先ずは、この本堂まで!立石寺はまだまだ続きます。


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