横浜の寺院巡り  称名寺 [寺社仏閣]

称名寺は、神奈川県横浜市金沢区金沢町にある真言律宗別格本山の寺院で、山号は金沢山。
本尊は弥勒菩薩。新四国東国八十八箇所霊場七十五番。

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【赤門】
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【仁王門】

北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時(1224年 - 1276年)が開基しました。
創建時期については確実なことはわかっていないそうですが、1258年(正嘉2年)実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源とされています。
1267年(文永4年)、鎌倉の極楽寺忍性の推薦により下野薬師寺の僧・審海を開山に招いて真言律宗の寺となったそうです。
金沢北条氏一族の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備されたが、鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅び、以後寺運も衰退しました。降って江戸時代に入ると大幅な復興が実現し、現存する建物が作られたそうです。

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【国史跡:称名寺浄土式庭園】

境内は国の史跡に指定され、赤門、仁王門、金堂、釈迦堂などがあります。
金堂前の阿字ヶ池を中心とする浄土式庭園は、1320年(元応2年)、金沢氏3代貞顕の代に整備されたもので、発掘調査を経て1987年(昭和62年)に復元されました。
浄土式庭園とは、浄土曼荼羅に基づいて配置された庭園のことで、平安時代末期に盛んにつくられていきました。塔頭としては光明院(運慶作の大威徳明王像を所蔵)と大宝院があります。

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【金堂】
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【鐘楼】
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【釈迦堂】

称名寺と縁の深い金沢文庫は、実時が病で没する直前の1275年(建治元年)ころ、居館内に文庫を設けたのが起源とされています。
文庫には、実時が収集した政治、歴史、文学、仏教などに関わる書籍が収められていました。
金沢北条氏滅亡後は、菩提寺の称名寺に文庫の管理がゆだねられたそうですが、寺運の衰退とともに蔵書も次第に散逸した(中でも徳川家康や前田綱紀の持ち出した数はかなりなものだと言われる)「金澤文庫」の蔵書印が捺された古写本は、現在も日本各地に残っています。
また嘉元4年(1306年)、称名寺造営料獲得のため元へ交易船(寺社造営料唐船)が派遣され、称名寺の僧である俊如房(快誉)が乗船したことが金沢文庫の古文書に見られています。
文庫は、1930年(昭和5年)、神奈川県立金沢文庫として復興、県立図書館として活動してきました。
1990年(平成2年)には新館が完成し、現在は、中世文化に関する博物館兼図書館の役割を果たしています。

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中世の金沢文庫の跡に建つ現在の文庫には、称名寺の文化財などを展示する展示室と図書閲覧室があり、称名寺所蔵の文化財は、本尊弥勒菩薩像など一部を除いて、金沢文庫に寄託・展示されています。

そして、この庭園で気になったというかビックリしたのが・・・・
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カメの数です。
世間一般的には池に餌を撒くと鯉がたくさん寄ってきますが、ここの池では餌を撒くとカメが怒涛の如く寄ってきます!!
本当にビックリしますから。


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次回はここから鎌倉に向かいます。
ってか、鎌倉はここから山を越えた反対側になるので近いのですよ。














深夏の寺院巡り 大田区 池上本門寺 [寺社仏閣]

池上本門寺。
時代劇やドラマ、映画などではよく耳にしていたのですが、行ったのは初めてでした。


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【総門】
五重塔、大宝塔、経蔵などと共に、昭和20年4月15日の戦災を免れた数少ない古建築の一棟として重要な建造物です。昔から世に知られ、安藤広重の『江戸百景』や『江戸近郊八景』にも描かれていて、簡素ながら、主柱間5.3メートルを測る壮大な門です。記録は失われているそうですが、第22世日玄聖人代の元禄年間に建立されたと伝え、様式的にも技法的にも、ほぼ妥当とされる。
扁額「本門寺」は門より古く、寛永4年(1627)本阿弥光悦の筆になり、日蓮宗の総門として貴重であるばかりでなく、特に、近世建築様式の上で、注目すべき点が多いといいます。

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【仁王門】
共に昭和20年4月15日の空襲で灰燼に帰し、三門は同52年に再建、仁王尊は同54年に新造されたそうです。三門は山門とも称されるが、正式には三解脱門の略。中心伽藍へ入る重要な門であり、三種の解脱(さとり)を求める者だけが通れる門です。
なお、旧三門は、慶長13年(1608)に徳川2代将軍秀忠公が五重塔と共に建立。
桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていたのです。

・・・、ここで問題発覚。なんと山門の全体写真が一枚のないのです(泣)。
データを知らない間に削除したようです。

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【日朝堂】
常唱堂、題目堂とも呼ばれ、行学院日朝聖人像を奉安していて、お題目修行の場として、近在結社の人々の努力により昭和48年に再建されたそうです。
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【鐘楼】
第17世日東聖人の代、加藤清正公の娘で御三家紀州藩祖徳川頼宣公の正室となった瑤林院が、正保4年(1647)に寄進しました。
その後、正徳4年(1714)、第23世日潤聖人の代に改鋳されたが、当初の銘文が残っている点は貴重なものです。
昭和20年4月15日の空襲で火をかぶり、一部に亀裂と歪みが生じたため、現在は傍らに仮安置してあります。
江戸前期の代表的な形態を示し、その雄大かつ豪快重厚な作風は、都内第一級のものといえる。また、縦帯の銘文を、筆順に随った篭字彫りとする。

そして
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【大堂】
旧大堂は、昭和20年4月15日の空襲で焼けてしまい戦後は仮堂でしのいでいたそうですが、第79世伊藤日定聖人が精力的に各地を行脚し、全国の檀信徒ならびに関係寺院等からの浄財寄進を得て、昭和39年、ようやく鉄筋コンクリート造の大堂の再建にこぎつけた。
聖人は落慶後ほどなくして遷化されたため、大扁額「大堂」は第80世金子日威聖人の揮毫になる。
内陣中央の大型御宮殿(建築厨子)に日蓮聖人の御尊像、いわゆる祖師像を奉安し、向かって左に第2世日朗聖人像を、右に第3世日輪聖人像を安置しています。
また、外陣の天井画を大田区在住の川端龍子画伯に委嘱。画伯は、その龍図の完成をみることなく逝去されたが、奥村土牛画伯が眼を点じて開眼供養をとげた。未完ゆえ龍と判別しがたいが、画伯の遺作として、今も多くの人が訪れています。

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【霊玉殿】
立教開宗750年慶讃事業の一環として、平成13年に完成。
本門寺が格護している数々の霊宝を永代に亘って保全する。通常、毎週日曜日に観覧出来ます。

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【経蔵】
天明元年(1781)に再建を発願し、3年後の同4年(1784)、松平周防守室浄心院智光妙受日成禅尼と松平播磨守室遠紹院妙道日養大姉を本願主として再々建したという。、堂内の柱には、江戸後期に広範囲な周辺地域の寄進者の名が刻まれ、また、銘札によって、第74世酒井日慎聖人代の昭和7年に棟梁小木新七薫雄が営繕したことがわかる。独立した堂宇のため、幸いにも昭和20年4月15日の空襲の際も、五重塔・大宝塔・総門などと炎上を免れた。江戸中期の本格的かつ大型の経蔵で、全国的にも注目される。

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【多宝塔】
この多宝塔は非常に珍しいものですので、詳しくご紹介します。

 この地は、当山の重要な浄域の一つで、日蓮聖人御入滅の折の御荼毘所である。『新編武蔵風土記稿』などによると、かつては2間に3間の御灰堂があって、当初、開基檀越の池上宗仲公が多宝塔を作り、聖人の御余灰を中に盛って奉安したと伝える。現在は、北側に第33世日謙聖人が天明元年(1781)に造立した石碑の宗祖第五百遠忌報恩塔が建つ。
 その霊場に建てられた木造の多宝塔は、棟札(現存せず)抄により、第47世日教聖人代の文政11年(1828)、宗祖五百五十遠忌を目前に、前犬山城主成瀬侯・家老浅野蔀を大本願人とし、飯田町福田長次郎を世話人として再建されたことがわかる。大工棟梁(工匠)は小木新七藤原信盛ほかである。ちなみに日教聖人は、諸堂宇を精力的に再建した功により「金づち教師」とよばれる。
 その後、嘉永4年(1851)に修理された。なお、同6年(1853)に五重塔を修理した棟梁も小木新七藤原信久で、昭和7年に経蔵を修理した棟梁も小木新七薫雄である。当山御用達の大工として、代々、小木新七を名乗ったことがわかる。
 石造基壇は、高い方形基壇および蓮華形台座からなる。軸部は平面円形で、やや伏鉢状をなし、側柱8本を円形に配し、内部の上に、12本の側柱および8本の柱を円形に配して、上層をなしている。附の内部の多宝塔は、四天柱の内に安置され、10体の亀を配した迦葉座以外は、ほぼ多宝塔に類似している。
この多宝塔は、富山県本法寺所蔵の重文・法華曼荼羅図に見える多宝仏塔に近似しており、年代は江戸後期と新しいが、境内に建立された大型の多宝塔として、全国的にも類例の少ない、極めて貴重な遺構である。
(※池上本門寺サイトより抜粋)

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【五重塔】
関東に4基現存する幕末以前の五重塔のうち、一番古い塔だそうです。
本塔のそもそもの発願は、のちに徳川2代将軍となる秀忠公の病気平癒祈願にあった。文禄2年(1593)のこと、15歳の秀忠公が悪性の疱瘡にかかり、一命も危うい容態におちいってしまった。そこで、熱心な法華信者であった乳母岡部の局(のち正心院)が、大奥より池上へ日参し、あつく帰依していた第12世日惺聖人に病気平癒の祈願を託され、「心願が成就したあかつきには御礼に仏塔を寄進する」との念でひたすら祈った。その甲斐あって快癒し、将軍となった後、その御礼と、あわせて武運長久を祈り、慶長12年(1607)に建立〔露盤銘〕、翌13年に上棟式を厳修した〔棟札銘・焼失〕。開眼供養の大導師は第14世日詔聖人、大願主が正心院日幸大姉(岡部の局)、普請奉行は幕臣の青山伯耆守忠俊、棟梁は幕府御大工の鈴木近江守長次、鋳物師は椎名土佐守吉次である。いわば幕府のお声掛かりで建造された当時第一級の塔である。にもかかわらず、江戸建築が確立する前の桃山期の建立であるため、特に構造上、過渡期の特色が濃厚である。桃山期の五重塔は全国で1基だけであり、文化遺産としての価値は極めて高い。
 当初、大堂の右手前、現在の鐘楼堂と対の位置に建てられたが、直後の慶長19年(1614)の大地震で傾き、元禄15年(1701)、5代将軍綱吉公の命で現在地へ移築、修復された。その後、数度の修理を経て、平成9~13年、日蓮聖人立教開宗七百五十年慶讃記念事業の一つとして、全解体修理が施され、全容を一新した。特徴としては、初層のみを和様(二重平行垂木・十二支彫刻付蟇股など)とし、二層以上を唐様(扇垂木・高欄付廻縁など)とする点、上層への逓減率が少ない点、相輪長が短い点、心柱が初層天井の梁上に立つ点、等があげられ、極めて貴重な塔建築である。なお、平成13年に全面修復が終了した。

という、貴重な文化財が多数残っている寺院です。



深夏の寺院巡り 目黒~圓融寺 [寺社仏閣]

8月24日、東京の目黒から南下して、横浜~鎌倉まで寺院巡りをしました。
では、その一日をご紹介しましょう。

一箇所目は目黒区の碑文谷にある寺院です。
圓融寺は、東京都目黒区碑文谷にある、天台宗の寺院で、圓融寺とも表記されています。
山号は経王山。

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【山門】
この山門は、昭和26年(1951年)に品川御殿山の原邦造邸から移築されたものです。銘によると、天保4年(1833年)、元播磨国美嚢郡三木和田の某寺の山門として工匠黒田重兵衛常久、瓦匠勝清の手によって作られたものでしたが、明治33年(1900年)3月、原邦造氏の先代六朗氏の還暦記念に際して邸宅に移され、さらに邦造氏の好意によって圓融寺に移されました。まさに山門三遷して所を得たといえます。江戸期の建築としては屈指の名門に数えられます。
現在の山門は、平成元年の記念事業として屋根が修復され、袖塀が造築されています。

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【仁王門:東京都指定有形文化財】
参道から階段を登ると、目の前に仁王門があらわれます。仁王門は檜と欅を用いた簡素な構成ながらも、唐風に和風を取り入れ、虹梁、蟇股、懸魚などにも様々な装飾が加えられています。
建立時期ははっきり分かりませんが、永禄2年(1559年)に仁王像が作成されるのとほぼ同時期と考えられます。ただし江戸時代の寛文期(1661-1672)と永禄期(1688-1703)の間に大改修が行なわれたため、足利時代の面影はほとんど残っていないと思われます。
茅葺きだった屋根は、2007年に銅葺きに改められました。

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【鐘楼】
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そして、この寺院の最大の見所が仏殿になります。

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【釈迦堂:国重要文化財】
入母屋造りのたおやかな曲線を描いく屋根をもつ釈迦堂が見えます。
室町初期の建立とされ、東京都区内最古の木造建築として知られています(都内では東村山市の国宝・正福寺地蔵堂に次いで2番目)。
明治44年(1911年)に国の古社寺保存法により国宝に指定され、昭和25年(1950年)に国の重要文化財に指定されました。
本来の屋根は茅葺きでしたが、火災予防の見地から昭和27年(1952年)に銅葺きに改められました。しかし、唐様建築の手法に和様を取り入れた優美なすがたは今日もなお残されています。

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【阿弥陀堂】
旧本堂の後方に高くそびえる雄大な新本堂は、昭和50年(1975年)の建立で、設計者に佐々木嘉平氏、設計顧問に早稲田大学名誉教授工学博士・田辺泰氏をむかえ、平安朝阿弥陀堂様式に則って建設されました。いまや圓融寺を代表するシンボル的な建築物で、境内の中でも一際異彩を放っています。
本尊の阿弥陀如来は、仏像彫刻家の第一人者である松本昇氏の会心の作で、日野法界寺の国宝・阿弥陀如来の様式を模して作られました。大きさは半丈六(約140センチ)で、胎内には経典の他に、発願主である第十八世住職阿純雄の銘と作者の名が納められています。

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この釈迦堂は前から見たかったので、大満足。境内も綺麗に掃除されていて気分良かったです。
次回は、ここから南へすすみ大田区のあの巨大な寺院に向かいます。



箱根ウォーキング ~ 箱根神社 [寺社仏閣]

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【箱根神社】
箱根神社は、神奈川県足柄下郡箱根町元箱根にある神社で、旧社格は国幣小社。かつては箱根権現、三所大権現とも称された事もある由緒ある神社なんです。

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【幣拝殿】

六国史や延喜式神名帳には見えないが、古代よりの山岳信仰の霊地であったと見られています。
『筥根山縁起』によれば、孝昭天皇の時代、聖占仙人が駒ヶ岳を神体山として神仙宮を開いたのに始まり、天平宝字元年(757年)、万巻上人が現在地に里宮を創建して僧・俗・女の三体の神を箱根三所権現として祀ったと伝えています。
駒ヶ岳山頂には箱根元宮が昭和39年(1964年)に堤康次郎の寄進によって再建されました。
以来、奥宮として登拝者を集めている。 社宝の『箱根権現絵巻』には、天竺斯羅奈(しらな)国・波羅奈国の姫君と王子が日本に来て箱根三所・伊豆二所両権現となったという伝承が掲載されています。
『吾妻鏡』には石橋山の戦いで敗れた源頼朝を当社の権現別当が助けたとの記事があり、以降、関東の武家の崇敬を受けるようになったと記載されています。
豊臣秀吉の小田原征伐の際に焼失したが、徳川家康が社領200石と社地不入の朱印状を寄せ、社殿を再建しました。
長らく別当寺の金剛王院東福寺が箱根権現の中核であったが、明治の神仏分離の際に別当は還俗して神職となり、箱根神社に改称した。昭和3年に国幣小社に昇格しました。

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ね、なかなか幻想的な感じでしょう。
個人的には満足な写真が何枚かあります(^^)







箱根ウォーキング ~ 旧街道から芦ノ湖へ [旅行]

箱根湯本から元箱根まで行く道中の旧街道です。

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こんな石畳が続きます。

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その先が芦ノ湖になります。

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この日は天候が悪すぎた感じでしたが、写真的には幻想的な感じになりました!


箱根ウォーキング ~ 遊歩道 [旅行]

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箱根旧東海道に沿うようにあるのが、この遊歩道です。

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箱根ウォーキング ~ 箱根石仏群 [旅行]

文化の日でもある今日は、文化財に伴う記事にしようと思います。

皆さんの知っている箱根って、箱根まで小田急のロマンスカーで行って、大小様々な温泉地に足を伸ばし、温泉につかってゆったりとした時間をすごす。多くの美術館や観光地をめぐり、帰りに温泉饅頭や蒲鉾、魚の干物を買って帰る・・・。
こんか感じではないでしょうか?

僕もそうでしたが、有名な場所だと既に行く場所もなくなってしまいました。

そこで思いついたのが、史跡なんかを歩いて廻る。
疲れましたが、これが面白かったのですよ。
今回はそれをご紹介していきます。

最初に行ったのは、箱根湯本駅から登山鉄道に乗り、バスに乗り換えて向かいました。向かった先は・・・・

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箱根にある【石仏群:国重要文化財】です。

知ってましたか?
意外と知らない人もいるのでは?

ではでは

最初に出てくるのが
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【曽我兄弟の墓:国重要文化財】
だそうです。
・・・
誰?と思ってしまいましたので、調べてみました。

建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていたことが窺える。

だ、そうです。

更に詳しく

所領争いのことで、工藤祐経は叔父・伊東祐親に恨みを抱いていた。安元2年(1176年)10月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。2人の刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されている。
祐泰の妻の満江御前(満行とも。なお『吾妻鑑』にも『曽我物語』にも名は表記されていない)とその子・一萬丸と箱王丸(筥王丸)が残された。満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。兄弟は雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。
その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。
祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられた。
文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙うが、敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる(のちに五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)。
箱王丸は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致となった。時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。苦難の中で、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかった。
建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれた。弟の時致は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。
翌5月29日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡す。時致は従容と斬られた。

と書かれていました。

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【箱根石仏群:国重要文化財】

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地下道をくぐると別の場所に石仏が出てきます。

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【磨崖仏:国重要文化財】
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凄いものなのですよ。どれくらい凄いかっていうと・・・
最近ご紹介したものだと、甲府【放光寺】の仏像
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これと同じ価値があると高く評価されているのですから。


夏の京都 31 永観堂禅林寺 2 [寺社仏閣]

永観堂禅林寺
今日は写真のみ最後にご紹介したいと思います。

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これが夏の京都の旅のラストでした。
この翌日から京都では大雨になりました。雨男の僕としては天候にも恵まれました。
長いお付き合い有難うございました。
次回からは一気に関東に戻ります。














夏の京都 30 永観堂禅林寺 1 [寺社仏閣]

いよいよこんな深秋の頃に、真夏の京都の記事のラストですよ。
最後に訪れたのは、永観堂禅林寺でした。

ここで一番有名なのが「みかえり阿弥陀」です。後は京都屈指の紅葉です。
しかし今回は翠狩りでご勘弁ください(^^)

ではでは中へと入っていきましょう。

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【総門】
禅林寺は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂の名で知られています。
山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院としています。
本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。
当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれるほどの見事な紅葉が見られます。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んであるのでも有名な寺院。

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【中門】
いよいよ中へと入っていきます。
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【大玄関】
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ここから先は広い境内になりますので、一気にいきます。

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【御影堂】
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【回廊】
そしてこのお堂の中に【みかえり阿弥陀】が安置されています。
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【阿弥陀堂】
本当はここでその阿弥陀像を掲載したいのですが撮影禁止でしたので、ネットで参照して見てください。摩訶不思議な阿弥陀様です。

空海(弘法大師)の高弟である僧都・真紹が、都における実践道場の建立を志し、五智如来を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は仁寿3年(853年)、歌人・文人であった故・藤原関雄の邸宅跡を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の貞観5年(863年)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。
当初真言宗寺院として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の律師・永観(1033年 - 1111年)の頃から浄土教色を強めていく。永観は文章博士の源国経の子として生まれ、11歳で禅林寺の深観に弟子入りする。当初、南都六宗のうちの三論宗、法相宗を学ぶが、やがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになる。師深観の跡を受けて禅林寺に入るのは延久4年(1072年)のことである。永観は人々に念仏を勧め、また、禅林寺内に薬王院を設けて、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。永観は、今日の社会福祉活動の先駆者といえるであろう。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。なお、「永観堂」は普通「えいかんどう」と読むが、「永観」という僧の名は「ようかん」と読むのが正しいとされている。
禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については次のような伝承がある。永保2年(1082年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。
禅林寺12世の僧都・静遍(1166年 - 1224年)は、当初真言宗の僧であったが、後に法然に帰依し、念仏門に入った。法然の高弟の証空(西山)も、静遍の後を嗣いで当寺に住持したと伝えられている。証空の門弟の浄音の時代に、禅林寺は真言宗から浄土宗西山派(小坂流)の寺院となり、揺るぎのない念仏道場とされた。
(※Wikipediaより抜粋)

次回は、更に奥へと進んでいきます。


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