深夏の寺院巡り 大田区 池上本門寺 [寺社仏閣]

池上本門寺。
時代劇やドラマ、映画などではよく耳にしていたのですが、行ったのは初めてでした。


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【総門】
五重塔、大宝塔、経蔵などと共に、昭和20年4月15日の戦災を免れた数少ない古建築の一棟として重要な建造物です。昔から世に知られ、安藤広重の『江戸百景』や『江戸近郊八景』にも描かれていて、簡素ながら、主柱間5.3メートルを測る壮大な門です。記録は失われているそうですが、第22世日玄聖人代の元禄年間に建立されたと伝え、様式的にも技法的にも、ほぼ妥当とされる。
扁額「本門寺」は門より古く、寛永4年(1627)本阿弥光悦の筆になり、日蓮宗の総門として貴重であるばかりでなく、特に、近世建築様式の上で、注目すべき点が多いといいます。

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【仁王門】
共に昭和20年4月15日の空襲で灰燼に帰し、三門は同52年に再建、仁王尊は同54年に新造されたそうです。三門は山門とも称されるが、正式には三解脱門の略。中心伽藍へ入る重要な門であり、三種の解脱(さとり)を求める者だけが通れる門です。
なお、旧三門は、慶長13年(1608)に徳川2代将軍秀忠公が五重塔と共に建立。
桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていたのです。

・・・、ここで問題発覚。なんと山門の全体写真が一枚のないのです(泣)。
データを知らない間に削除したようです。

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【日朝堂】
常唱堂、題目堂とも呼ばれ、行学院日朝聖人像を奉安していて、お題目修行の場として、近在結社の人々の努力により昭和48年に再建されたそうです。
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【鐘楼】
第17世日東聖人の代、加藤清正公の娘で御三家紀州藩祖徳川頼宣公の正室となった瑤林院が、正保4年(1647)に寄進しました。
その後、正徳4年(1714)、第23世日潤聖人の代に改鋳されたが、当初の銘文が残っている点は貴重なものです。
昭和20年4月15日の空襲で火をかぶり、一部に亀裂と歪みが生じたため、現在は傍らに仮安置してあります。
江戸前期の代表的な形態を示し、その雄大かつ豪快重厚な作風は、都内第一級のものといえる。また、縦帯の銘文を、筆順に随った篭字彫りとする。

そして
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【大堂】
旧大堂は、昭和20年4月15日の空襲で焼けてしまい戦後は仮堂でしのいでいたそうですが、第79世伊藤日定聖人が精力的に各地を行脚し、全国の檀信徒ならびに関係寺院等からの浄財寄進を得て、昭和39年、ようやく鉄筋コンクリート造の大堂の再建にこぎつけた。
聖人は落慶後ほどなくして遷化されたため、大扁額「大堂」は第80世金子日威聖人の揮毫になる。
内陣中央の大型御宮殿(建築厨子)に日蓮聖人の御尊像、いわゆる祖師像を奉安し、向かって左に第2世日朗聖人像を、右に第3世日輪聖人像を安置しています。
また、外陣の天井画を大田区在住の川端龍子画伯に委嘱。画伯は、その龍図の完成をみることなく逝去されたが、奥村土牛画伯が眼を点じて開眼供養をとげた。未完ゆえ龍と判別しがたいが、画伯の遺作として、今も多くの人が訪れています。

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【霊玉殿】
立教開宗750年慶讃事業の一環として、平成13年に完成。
本門寺が格護している数々の霊宝を永代に亘って保全する。通常、毎週日曜日に観覧出来ます。

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【経蔵】
天明元年(1781)に再建を発願し、3年後の同4年(1784)、松平周防守室浄心院智光妙受日成禅尼と松平播磨守室遠紹院妙道日養大姉を本願主として再々建したという。、堂内の柱には、江戸後期に広範囲な周辺地域の寄進者の名が刻まれ、また、銘札によって、第74世酒井日慎聖人代の昭和7年に棟梁小木新七薫雄が営繕したことがわかる。独立した堂宇のため、幸いにも昭和20年4月15日の空襲の際も、五重塔・大宝塔・総門などと炎上を免れた。江戸中期の本格的かつ大型の経蔵で、全国的にも注目される。

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【多宝塔】
この多宝塔は非常に珍しいものですので、詳しくご紹介します。

 この地は、当山の重要な浄域の一つで、日蓮聖人御入滅の折の御荼毘所である。『新編武蔵風土記稿』などによると、かつては2間に3間の御灰堂があって、当初、開基檀越の池上宗仲公が多宝塔を作り、聖人の御余灰を中に盛って奉安したと伝える。現在は、北側に第33世日謙聖人が天明元年(1781)に造立した石碑の宗祖第五百遠忌報恩塔が建つ。
 その霊場に建てられた木造の多宝塔は、棟札(現存せず)抄により、第47世日教聖人代の文政11年(1828)、宗祖五百五十遠忌を目前に、前犬山城主成瀬侯・家老浅野蔀を大本願人とし、飯田町福田長次郎を世話人として再建されたことがわかる。大工棟梁(工匠)は小木新七藤原信盛ほかである。ちなみに日教聖人は、諸堂宇を精力的に再建した功により「金づち教師」とよばれる。
 その後、嘉永4年(1851)に修理された。なお、同6年(1853)に五重塔を修理した棟梁も小木新七藤原信久で、昭和7年に経蔵を修理した棟梁も小木新七薫雄である。当山御用達の大工として、代々、小木新七を名乗ったことがわかる。
 石造基壇は、高い方形基壇および蓮華形台座からなる。軸部は平面円形で、やや伏鉢状をなし、側柱8本を円形に配し、内部の上に、12本の側柱および8本の柱を円形に配して、上層をなしている。附の内部の多宝塔は、四天柱の内に安置され、10体の亀を配した迦葉座以外は、ほぼ多宝塔に類似している。
この多宝塔は、富山県本法寺所蔵の重文・法華曼荼羅図に見える多宝仏塔に近似しており、年代は江戸後期と新しいが、境内に建立された大型の多宝塔として、全国的にも類例の少ない、極めて貴重な遺構である。
(※池上本門寺サイトより抜粋)

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【五重塔】
関東に4基現存する幕末以前の五重塔のうち、一番古い塔だそうです。
本塔のそもそもの発願は、のちに徳川2代将軍となる秀忠公の病気平癒祈願にあった。文禄2年(1593)のこと、15歳の秀忠公が悪性の疱瘡にかかり、一命も危うい容態におちいってしまった。そこで、熱心な法華信者であった乳母岡部の局(のち正心院)が、大奥より池上へ日参し、あつく帰依していた第12世日惺聖人に病気平癒の祈願を託され、「心願が成就したあかつきには御礼に仏塔を寄進する」との念でひたすら祈った。その甲斐あって快癒し、将軍となった後、その御礼と、あわせて武運長久を祈り、慶長12年(1607)に建立〔露盤銘〕、翌13年に上棟式を厳修した〔棟札銘・焼失〕。開眼供養の大導師は第14世日詔聖人、大願主が正心院日幸大姉(岡部の局)、普請奉行は幕臣の青山伯耆守忠俊、棟梁は幕府御大工の鈴木近江守長次、鋳物師は椎名土佐守吉次である。いわば幕府のお声掛かりで建造された当時第一級の塔である。にもかかわらず、江戸建築が確立する前の桃山期の建立であるため、特に構造上、過渡期の特色が濃厚である。桃山期の五重塔は全国で1基だけであり、文化遺産としての価値は極めて高い。
 当初、大堂の右手前、現在の鐘楼堂と対の位置に建てられたが、直後の慶長19年(1614)の大地震で傾き、元禄15年(1701)、5代将軍綱吉公の命で現在地へ移築、修復された。その後、数度の修理を経て、平成9~13年、日蓮聖人立教開宗七百五十年慶讃記念事業の一つとして、全解体修理が施され、全容を一新した。特徴としては、初層のみを和様(二重平行垂木・十二支彫刻付蟇股など)とし、二層以上を唐様(扇垂木・高欄付廻縁など)とする点、上層への逓減率が少ない点、相輪長が短い点、心柱が初層天井の梁上に立つ点、等があげられ、極めて貴重な塔建築である。なお、平成13年に全面修復が終了した。

という、貴重な文化財が多数残っている寺院です。



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