【初秋木曽路の旅】 ~ 馬籠宿編 2 [旅行]

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この建物が馬籠宿の上部で最後の建造物です。ここでバスを待てば良かったのですが・・・。
何とここのバス停の存在に気付かずに、折り返してしまいました。

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【初秋木曽路の旅】 ~ 馬籠宿編 1 [旅行]

中央自動車道神坂パーキングエリアから馬籠宿までの1kmは坂道をのんびりと歩いていきます。

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いい感じの風景が続きます。すると一気に観光地になります。

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【馬籠宿】
馬籠宿は、中山道43番目の宿場(→中山道六十九次)で、木曽11宿の一番南の宿場町になります。

かつては長野県木曽郡山口村に属していましたが2005年(平成17年)2月の山口村の越県合併により岐阜県中津川市に編入されました。
1895年(明治28年)と1915年(大正4年)の火災により、古い町並みは石畳と枡形以外はすべて消失したのですが、その後復元され現在の姿となったそうです。

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石畳の敷かれた坂に沿う宿場で、馬籠峠を越えた信州側の妻籠宿(長野県木曽郡)とともに人気があり、多くの観光客が訪れていました。
石畳の両側にお土産物屋がならび、商いをしていない一般の家でも当時の屋号を表札のほかにかけるなど、史蹟の保全と現在の生活とを共存させている宿場町です。

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次回はもっと奥まで歩いていきます。















【初秋木曽路の旅】 ~ 出発  [旅行]

初秋の木曽路の旅。

非常に充実した旅でした。
朝一に予期せぬ渋滞で2時間のロスは発生しましたけどね。

今回はその旅をご紹介したいと思います。
ではでは・・・

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【多摩川の朝】
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【是政橋】
是政橋の旧橋は、1957年(昭和32年)に竣工・完成したそうですが、慢性的な交通渋滞、交通量増加や橋の老朽化のために1998年(平成10年)に第1期工事が竣工・完成して掛け替えられ、引き続き、第2期工事が行われ2011年(平成23年)3月に竣工・完成しました。

この先にある中央高速の高速バスで最初の目的地【馬籠宿】へと向かいました。

途中

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【諏訪湖】
ここは後日ご紹介します。

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(※バス車内より撮影)

着いた先が馬籠宿まで歩いて行くことが出来るサービスエリア。
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小さな鉄扉があり、その先にこの小さな看板が。
ここから、兎に角、歩きと登山の一泊二日の旅が始まりました。

その最初の目的地【馬籠宿】は明日から詳しくご紹介します。






豪徳寺界隈散歩 松陰神社 [寺社仏閣]

松陰神社は、江戸時代末(幕末)の思想家・教育者である吉田松陰を祭神とする神社です。
世田谷区役所から歩いてすぐの所にあります。

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松陰神社境内
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【神楽殿】
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【松陰神社 御社殿】

鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863年)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された。明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。
現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものである。

松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名前が刻まれている。松下村塾を模造した建物、頼三樹三郎、広沢真臣らの墓もある。松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、慶応4年(明治元年)、木戸孝允がこれを修復整備した。墓域には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。また、敷地に隣接する形で桂太郎の墓もあるが、案内が不十分なこともあり、参拝者は少ない。桂自身の遺言により、この地に埋葬された。
徳富蘆花の「謀反論」でも書かれているが谷を挟んだ向こう側には豪徳寺がある。豪徳寺は吉田を刑死させた安政の大獄を起こした井伊直弼の菩提寺である。

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【松下村塾模擬展示】
松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引継ぎました。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。(玉木氏は明治9年死亡) 松陰先生は嘉永5年(1852)23才の時は半年ほど、安政2年(1855)26才の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月迄、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していました。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が名実共に公に認められたのは、安政5年7月20日、先生29才の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5ヶ月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2ヶ年半程であったようです。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ80~90名前後と言われており、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。本神社にある松下村塾は山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。(土日祝のみ雨戸開放(午前9時から午後4時半)。荒天除く)

他にも多くの石碑がありました。



世田谷 豪徳寺 [寺社仏閣]

豪徳寺は、東京都世田谷区豪徳寺二丁目にある曹洞宗の寺院で、元は臨済宗。
山号は大谿山(だいけいざん)。一説には招き猫発祥の地と言われています。

この寺院は会社からも近い場所にある寺院なのですが初めて拝観しました(^^)
では、そんな境内をご紹介します。

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【総門】
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【山門】
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本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
文明12年(1480年)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ。当初は臨済宗に属していたが、天正12年(1584年)曹洞宗に転じる。
寛永10年(1633年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備した。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による。

と書いてありました。

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【三重塔】
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【仏殿:区指定有形登録文化財】

【仏殿木像5躯:世田谷区指定有形文化財】

仏殿同様、延宝5年、仏師・松雲元慶の作。

大権修利菩薩像
弥勒菩薩像
釈迦如来像
阿弥陀如来像
達磨大師像

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【回廊】

そして、ここには全国的にも有名なものが発祥の地なのです。


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【招福観音】
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【招福猫児】

井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所としたといわれています。
豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)」と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置く。招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫です。

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【赤門】
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【本堂】
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【鐘楼:区指定登録有形文化財】

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一気にご紹介しましたけど、こちらのお寺近々ま拝観しに行きますので、その時にはリアルタイムでご紹介します。









豪徳寺界隈散歩 世田谷八幡宮 [寺社仏閣]

豪徳寺界隈を散歩してみました。
近所に引っ越してきて12年初めてかも知れません、こんなに豪徳寺界隈を散歩したのは(^^)
色んな場所を回ったのですが、今回はご紹介するのは世田谷八幡宮と豪徳寺、それに松陰神社の三箇所。では今日はその中のひとつめ【世田谷八幡宮】をご紹介します。

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【世田谷八幡宮:大鳥居】

世田谷八幡宮は、東京都世田谷区宮坂一丁目にある神社である。旧社格は郷社です。
寛治5年(1091年)後三年の役(1083〜87)の帰途、源義家がこの宮の坂の地で豪雨に会い、天候回復を待つため、滞在することとなり今度の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の加護によるものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の分霊をこの地に勧請し祀ったそうです。

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後に世田谷城主七代目の吉良頼康が天文15年(1546年)社殿を再興させて発展させた。この天文15年が実質的な創建の時と考えられる。明治5年(1872年)郷社に列し、社号を宇佐神社と改めたが、第二次大戦後、世田谷八幡宮の名に復した。

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【社殿】

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かつては奉納相撲の勝敗によって来年の豊作・凶作を占ったり、今年の豊作を感謝したため、境内には土俵や力石がある。今でも毎年秋の例祭(9月15日)には東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われています。
最寄駅の東急世田谷線宮の坂駅の駅名はこの神社の脇にある宮の坂に由来している。
文化10年(1813年)年建立の旧本殿が、昭和39年(1964年)に建てられた現在の社殿内に納められています。

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次回は豪徳寺をご紹介します。





















鎌倉寺院巡り 龍口寺 [寺社仏閣]

昨日ご紹介した明王院のある浄明寺界隈から江ノ島界隈まで西へ進むと、江ノ島駅付近にある寺院が今日ご紹介する龍口寺。
龍口寺は、神奈川県藤沢市片瀬の龍口刑場跡に建つ日蓮宗の本山(霊蹟寺院)で、山号は寂光山。
略字体を用いて「竜口寺」と称す場合もあるようです。

では境内へ進んでみましょう。

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【仁王門】
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【山門】
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【本堂及び境内】
天保3年(1832)建立。欅造り銅版葺。間口12間・奥行き15間。神奈川県の代表的な木造大建築物で、正面には中老僧日法聖人作の日蓮聖人像が安置され、脇陣に六老僧・鬼子母神・清正公像等が祀られている。敷皮石を安置することから「敷皮堂」とも称し、堂内正面にその扁額が掛かっています。

この地はかつて刑場跡で文永8年(1271年)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が処刑されそうになった。この事件を日蓮宗では龍ノ口法難と呼びます。
その後延元2年(建武4年、1337年)に日蓮の弟子、日法がこの地を「龍ノ口法難霊蹟」として敷皮堂という堂を建立し、自作の祖師像(日蓮像)と首敷皮を置いたのが龍口寺の始まりと伝わっています。
なお、本格的な寺としての格式を整えたのは腰越・津 (鎌倉市)の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女が慶長6年(1601年)に土地を寄進して以来のこととされているようです。明治19年(1886年)までは選任住職を置かず、片瀬八ヶ寺が輪番で維持していた。現住は15世本間日恩貫首(台東区善慶寺より晋山)、池上法縁五本山の一つ。

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【大書院】
欅造り瓦屋葺。明治初年、信州松代で蚕糸業で財をなした窪田家が造った蚕糸御殿で、昭和10年に移築された建造物です。全体の美しさと両側面大廊下の12間一本通しの杉柱は一見の価値があるそうです。
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この龍口寺には、普通の寺院では良く見かけるのに鎌倉の全ての寺院にないものがあります。
それは一体何だと思いますか?

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【五重塔】
明治43年(1910年)竣工。木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一。しかも鎌倉市内に現存する五重塔では唯一。建造には竹中工務店が携わったことでも知られています。
彫刻は一元流(藤沢彫川)の一元安信。全国的にも数少ない明治期の五重塔です。

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他にも見所が多く存在します。

仏舎利塔
昭和45年(1971年)9月12日竣工。龍口法難700年を記念し日本山妙法寺(藤井日達上人)が建立。塔内には仏舎利が安置されている。龍口寺裏山(龍口山)の高台にあり、かつては江ノ島や相模湾を一望のもとにできたが、国道134号・国道467号沿いに複数の高層ビルが建って以降、視界がビルにさえぎられるようになった。

御霊窟
龍ノ口法難の際に日蓮が入れられていたとされる土牢。中には祖師像が安置されている。

島村采女墓
龍口寺に寺領を寄進した島村采女はじめ、島村家代々の墓。本堂すぐ脇にある。

七面堂
光松妙見堂(旧法善坊)

萬人歯骨塚
明治14年(1881年)、水野房吉という入歯師が、歯・入歯の供養と入歯師の技術向上を願って建立したもの。(社)藤沢市歯科医師会では10年前に整備し、以来毎年6月の第一日曜日に供養祭を開催している。

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先日からご紹介していた今回の横浜、鎌倉の寺院めぐりは今日がラストになります。
明日は世田谷にある豪徳寺界隈をご紹介したいと思います。










鎌倉寺院巡り 浄明寺 [寺社仏閣]

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浄妙寺は、神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の仏教寺院で、山号は稲荷山(とうかさん)。
詳名は稲荷山浄妙広利禅寺というそうです。
本尊は釈迦如来。開基(創立者)は足利義兼、開山(初代住持)は退耕行勇。鎌倉五山の第五位。鎌倉三十三観音第9番。

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鎌倉市の東部、市の中心部から横浜市の金沢に抜ける金沢街道沿いにあります。
境内は南に開けた谷の中央に位置し、西には杉本寺と杉本城址、東は胡桃ヶ谷(くるみがやつ)があり、南に衣張山を望む。鎌倉五山の第五位の寺院として、かつては広大な寺地を有し、23箇院の塔頭を有していたが、現在でも付近一帯の地名を「浄明寺」といい(地名は「妙」の代わりに「明」字を用いる)、住宅団地名にも使用されるなど、その名残を残しています。寺には婦人病に霊験のある神とされる淡島明神立像を安置することから、婦人病の祈願所とされているようです。境内墓地には足利貞氏の墓とされる宝篋印塔がありました。

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【本堂】
寄棟造、銅板葺(もと茅葺)。平面は方丈形式の六間取りとする。江戸時代中期の建物だそうですが、仏壇周辺などには室町時代の材が用いられているのが特徴です。
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【庫裏】
他にも庭園が有名みたいですが、この日お堂内は拝観出来ませんでした。元々出来ないのかなぁ・・・。


そして、この寺院のあるものが最近鎌倉では話題になっています。
それが
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この石窯ガーデンテラスです。境内で本格的なパスタやピザなどが楽しめるそうですが、僕らは別のところに予約していたので、今回はパスしました。
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鎌倉寺院巡り 明王院。 [寺社仏閣]

明王院は、神奈川県鎌倉市にある真言宗御室派の寺院で、山号は飯盛山。
寺号は寛喜寺。本尊は五大明王で、「五大堂」とも称される。鎌倉観音霊場第八番札所です。

ここの寺院は境内は撮影禁止ですので、以下の写真しかありません。ご勘弁ください。この日は法事の為、お堂の中も拝観出来ませんでしたが、普段は国の重要文化財でもある仏様が拝観出来ます。

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鎌倉市街地の東方、金沢街道から北に入り、滑川を渡った位置にあります。
この寺院は、寛喜3年(1231年)鎌倉幕府4代将軍藤原(九条)頼経によって発願された寺で、寺号の「寛喜寺」は発願の年号によるものです。
嘉禎元年(1235年)に落慶し鶴岡八幡宮別当の定豪が開山に迎えられました。寺院は寛永年間(1624 - 1644年)の火災で焼失し、その後再建されたものだそうです。
本尊として不動明王を中心とする五大明王像が安置されていますが、不動明王像のみが鎌倉時代のもの(国重要文化財)で、他の4体は上記の火災後の造立だそうです。
不動明王像は作風から鎌倉時代の仏師・肥後別当定慶の作と推定されている。明王院は藤原頼経開基の寺院であるが、頼経の室・竹御所の一周忌の本尊仏を文暦2年(改元して嘉禎元年・1235年)5月、肥後法橋(定慶)が造立したことが『吾妻鏡』にみえ、頼経と定慶の関係を裏付けられています。

すみませんが、これ以外の情報はありません。気になる方は是非拝観されて下さい。境内には茅葺屋根のお堂などもありますし、庭園もしっかり掃除されていて綺麗でした。


深夏の寺院巡り 横浜  東潮寺 [寺社仏閣]

横浜磯子区にある寺院、東潮寺。
本当は鎌倉の寺院をご紹介するつもりでしたが、この寺院の存在を忘れていました。

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東漸寺(とうぜんじ)は、横浜市磯子区杉田にある臨済宗建長寺派の寺院で、正式には霊桐山東漸実際禅というそうです。
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正安3年(1301年)北条宗長(北条時政から数えて5代目)により桃渓徳悟を開山に迎え建立された。至徳3年(1386年)五山十刹の制度により十刹の第7位に列せられています。

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【鐘楼:国重要文化財】
梵鐘「永仁の鐘」(国の重要文化財)永仁6年(1298年)に鋳物師、物部国光によって造られた。総高127cm、口径70.6cm。現在ここ東漸寺をはじめ5口の梵鐘が残っていますが、いずれも国宝や重要文化財に指定されています。特に円覚寺鐘は260センチもある巨鐘で、物部重光の作った建長寺の鐘(建長7年、1255年)210センチと双璧をなす名鐘です。昭和28年11月、国の重要文化財として指定されました。
現在この鐘は釈迦堂内に保存されており、鐘楼の鐘はこの鐘の複製です。

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【釈迦堂:県重要文化財】
梁牌により正安3年(1301年)に円覚寺の永仁再興に当たった桃渓徳悟(宏覚禅師の元の名)が、北条義時の次子、名越朝時の會孫宗長を大檀那として建立されました。
応仁の乱以後兵火にかかり建物が焼失しましたが、建長寺第156世以精嵩一和尚が衰退を惜しんで寺門興隆の基礎を開きました。明治11年、杉田の大火によって、表門・裏門・観音堂・弁天堂・稲荷社等を焼失しましたが、釈迦堂・開山堂・庫裏・鐘楼は焼失を免れました。更に大正大震災では釈迦堂のみ残り、その後5回の大修理が行われました。創建当時の古材が、柱8本、台輪3丁、など貴重な部材が残されました。
昭和46年9月、県の有形文化財として指定され、同47年5月、県文化財保護課による基壇、土間の発掘調査が行われ、典型的な禅宗様仏殿の平面が判明しました。それにより、仏殿復元が可能となり、昭和48年4月より5ヵ年で解体修理が行われ、完全な復元がなされた大規模な中世禅宗建築として残されています。

一般には、円覚寺の舎利殿が最古の禅宗建築様式を伝えると言われていますが、弘治年間(1555年)に西御門の太平寺の仏殿を移築したもので、東漸寺の仏殿は文明時代ですから、これこそ最古の禅宗様式として貴重な建物です。
仏殿には、本尊釈迦を安置しているので通常は釈迦堂と呼ばれています。
という、立派な釈迦堂です。
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(※円覚寺舎利殿:国宝 2014年11月撮影 )

見比べてみても非常に興味深い類似点が多いのが分かるかと思います。

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【庫裏】
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【五輪塔:県重要文化財】
釈迦堂の手前に三基の五輪塔があります。蜜教では、宇宙はすべて空、風、火、水、地、の万象によって構成されるという思想から、下から方、円、三角、半円、宝珠形を積み上げて造られています。
この五輪塔はいずれも疑灰岩製にも拘わらず、比較的風化が少なく、大きさは大小ですが、ほとんど同じ形で右
塔の空風輪は欠損していますが、軒の厚さは中央と両端ではほとんど差がなく、三基の五輪塔はともに鎌倉時代後期のものと思われます。
国の重要文化財の建造物ではないけど、国の重要文化財、国宝にも匹敵する建造物でしたので、行って良かった寺院でした。あいにく拝観は出来ませんでしたが、外観だけでも十分に楽しめました。


次回は、鎌倉の寺院になります。











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