夏の京都 29 曼殊院 [寺社仏閣]

前日から何とか持ち堪えていた天気も崩れてしまい、遂に雨が降り始めました。
その雨が降りだすと同時に到着したのが、この曼殊院でした。

曼殊院は京都市左京区一乗寺にある天台宗の仏教寺院で、山号はなし。
本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は是算(ぜさん)です。
竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)であり、青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられています。
国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財を保有しています。

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【勅使門】
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【北通用門】

ここから先は撮影禁止ですので、ご説明だけで。

他の天台門跡寺院と同様、最澄(767-822)の時代に比叡山上に草創された坊(小寺院)がその起源とされる。その後、12世紀頃に北山(現在の京都市右京区・鹿苑寺付近)に本拠を移し、洛中(現在の京都市上京区・相国寺付近)への移転を経て、現在地に移転したのは明暦2年(1656年)のことである。
寺伝では延暦年間(782-806)、伝教大師最澄が比叡山上に営んだ一坊がその起源とされる。円仁、安恵らを経て、10世紀後半の僧である是算の時、比叡山三塔のうちの西塔北谷に移り、東尾坊(とうびぼう)と称したという。最澄、円仁、安恵…というのは天台宗の法脈を表すもので、曼殊院の歴史は実質的には是算の時代から始まるといえる。是算の事績についてはあまり明らかでないが、花山法皇(968-1008)の弟子であったという。

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曼殊院は平安時代以来、近世末期に至るまで北野神社(現・北野天満宮)と関係が深く、歴代の曼殊院門主は北野神社の別当(責任者)を兼ねていた。通説では、曼殊院初代門主の是算が菅原氏の出身であったことから、菅原道真を祭神とする神社である北野神社の創建(天暦元年・947年)に際し別当に任命されたという。なお、是算の別当任命については、北野神社創建時ではなく、寛弘元年(1004年)、一条天皇の北野神社行幸時のこととする別説もある。北野神社の創建年とされる天暦元年(947年)と是算の没年である寛仁2年(1018年)の間には70年もの開きがあることを勘案すれば、寛弘元年(1004年)任命説の方に妥当性があると言えよう。
天仁年間(1108-1110)、是算から数えて8代目の門主・忠尋の時に、北野神社からさほど遠くない北山(現・京都市右京区)に別院を建て、寺号を「曼殊院」と改めた。別院を建設したのは、北野神社の管理の便のためと思われる。比叡山にある本坊と北山の別院とはしばらくの間、並立していたが、次第に北山の別院が主体となっていった。

そしてこの寺院で人気なものが庭園で国の名勝にも指定されています。

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建造物では、大書院、小書院、庫裏が国重要文化財に指定されています。
美術品では多くの文化財を保管しています。

国宝

【絹本著色不動明王像(黄不動)】
滋賀・園城寺(三井寺)に秘蔵される、黄不動像(平安時代前期)を元に制作された画像の1つであり、平安時代末期、12世紀頃の制作と推定されている。京都国立博物館に寄託。

【古今和歌集(曼殊院本)1巻】
色変わりの染紙に優美な和様書体で書写された古今和歌集の写本で、11世紀に遡る遺品である。高野切本古今和歌集などと並び、平安時代の仮名の名品として知られる。京都国立博物館に寄託。

重要文化財

玄関障壁画(紙本金地著色竹虎図)11面
紙本著色是害房絵 2巻
絹本著色草虫図 2幅 呂敬甫筆 
木造慈恵大師坐像
源氏物語 蓬生、薄雲、関屋 3冊 
論語総略(紙背消息)
教訓鈔及続教訓鈔 9巻
古今伝授関係資料 73種(明細は後出)
後柏原天皇宸翰後土御門後柏原両天皇詠草
紺紙金泥般若心経 後奈良天皇宸翰(安房国宛)
花園天皇宸翰御消息(7通)
花園天皇宸翰御消息(普賢形像事云々)
慈円僧正筆消息(十月五日 権少将宛 )
池坊専好立花図(42図)1帖

以上。

秋にはこのコントラストに橙色や茜色などが交じって本当に綺麗な庭になるようです。

では次回は最終回。
今回の京都の旅で最後に拝観する寺院に選んだ寺院に向かいます。


夏の京都 28 圓通寺 [寺社仏閣]

円通寺は京都市左京区岩倉幡枝町にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院。山号は大悲山で聖観音を本尊とし、円通寺庭園が国の名勝として知られています。

こんな言い方は失礼かも知れないのですが、庭以外で有名なものは【重要文化財の紙本墨書霊元天皇宸翰御消息】以外は御座いません。

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元は後水尾天皇の山荘であった幡枝御殿であり、後述する枯山水庭園もその頃に造営されたものである。修学院離宮の造営に伴い、幡枝山荘は近衛家に譲渡された。後の延宝6年(1678年)、霊元天皇の乳母であった圓光院殿瑞雲文英尼大師が開基となって寺に改め、皇室の祈願所となった。妙心寺10世の景川宗隆を勧請開山としている。
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枯山水式の庭園で国の名勝に指定されている。苔を主体に刈込みと石を配し、大小40余りの庭石は上皇となった後水尾天皇が自ら配したといわれる。また、刈込みと立木の背後に望む比叡山を借景としており、上皇は最も比叡山の眺望に優れた地を求めて、この幡枝に山荘を設けたといわれている。
とりわけ、この円通寺庭園は借景の美しさで名高い。そのため、高層マンション建築など急速に進む都市開発は、貴重な借景を壊してしまう懸念材料になると危惧されていた。そのため、京都市は円通寺庭園など借景を保護するための眺望条例(正式名称は京都市眺望景観創生条例)を制定するようになった。円通寺は同条例の対象地となり、周辺区域では高さだけでなく、屋根の形式なども制限されています。
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次回は、同じく庭園は有名な寺院をご紹介します。
これで今回の京都の旅でご紹介する寺院も残すところ後2箇所になりました。

もう少しだけお付き合いください(^^)


夏の京都 27 鞍馬寺~貴船神社 [寺社仏閣]

鞍馬寺から貴船神社へ向かう途中に出てくる建物が
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【冬柏亭】
与謝野晶子書斎、東京から移築されたものです。

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【僧正ガ谷不動堂】
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【義経堂】

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そしてようやく貴船神社界隈に到着します。


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【貴船神社鳥居】
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この景色は有名ですよね。

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貴船神社(きふねじんじゃ)は、京都府京都市左京区にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に約450社ある貴船神社の総本社である。地域名の貴船「きぶね」とは違い、水の神様であることから濁らず「きふね」というそうです。
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【本殿】

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水神である高龗神を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰された。水の神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めている。
古来より、晴れを願うときには白馬が、雨を願うときには黒馬が奉納されたが、実際の馬に代わって木の板に描いた馬が奉納されたこともあり、このことから絵馬が発祥したとも言われる。
また、縁結びの神としての信仰もあり、小説や漫画の陰陽師による人気もあり、若いカップルや女性で賑わっている。その一方で縁切りの神、呪咀神としても信仰されており、丑の刻参りでも有名である。ただし「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に貴船明神が貴船山に降臨したとの由緒から、丑の刻に参拝して願いを掛けることは心願成就の方法であり、呪咀が本来の意味では無い。平安時代には丑の刻であるかどうかは不明だが貴船神社に夜に参拝することが行われていた。時代の変遷と共に本来の意味が変質したものと思われる。
付近は京都でも有名な紅葉の名所のひとつである。

参拝して満足でした。
自転車を漕いで、歩いて軽く登山して来た甲斐がありました。

そして、この貴船地区で有名なものが
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川床になります。貴船川を覆うように川床が設置され懐石料理が食べられます。
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しかし、そんな余裕はありません。まだまだ予定があるので、ここで貴船口の自転車を救出すべくバスで向かいました。
そして、次はこの貴船口からチャリンコで30分くらいの所にある借景庭園が有名な寺院に向かいましが、それはまた次回ご紹介します。
・・・・、って、世間ではすでに秋なので、大分季節はずれになりましたがご勘弁を(^^)




夏の京都 26 鞍馬寺 [寺社仏閣]

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【仁王門】

鞍馬寺は、京都府京都市左京区鞍馬本町にある寺で、1949年まで天台宗に属したが以降独立して鞍馬弘教総本山となっています。
山号は鞍馬山。開基(創立者)は鑑真の高弟鑑禎(がんてい)とされていて、本尊は寺では尊天。「尊天」とは毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊であるという。
京都盆地の北に位置し、豊かな自然環境を残す鞍馬山の南斜面に位置する。鞍馬は牛若丸(源義経)が修行をした地として著名であり、能の『鞍馬天狗』でも知られる。新西国十九番札所である。
なお、鞍馬寺への輸送機関としてケーブルカー(鞍馬山鋼索鉄道)を運営しており、宗教法人としては唯一の鉄道事業者ともなっています。

京都市内から鞍馬寺前までは、叡山電鉄出町柳駅から鞍馬線に乗ると約30分で鞍馬駅に着きます。
駅を出て徒歩1分で仁王門(山門)に到着します。
その叡山電鉄の親会社である京阪電気鉄道では、同社との共同企画乗車券『鞍馬・貴船1dayチケット』を出町柳駅を除く京阪線系統すべての駅で発売しており、拝観の際に本券を受付に提示すると、愛山費が大人通常200円のところを優待料金で拝観出来ます・・・・

が、ここまでチャリンコと歩きで来ました。

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寺に伝わる『鞍馬蓋寺縁起』(あんばがいじえんぎ)が草創縁起を伝えており、鑑真の高弟・鑑禎が宝亀元年(770年)に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりという。
鑑禎は、鑑真が唐から伴ってきた高弟8名のうちの最年少であった。宝亀3年(772年)のある夜、鑑禎は霊夢を見、山城国の北方に霊山があると告げられる。霊山を尋ねて出かけた鑑禎は、ある山の上方に宝の鞍を乗せた白馬の姿を見る。その山が鞍馬山であった。山に入った鑑禎は女形の鬼に襲われ殺されそうになるが、あわやという時、枯れ木が倒れてきて鬼はつぶされてしまった。翌朝になると、そこには毘沙門天の像があったので、鑑禎はこれを祀る一寺を建立したという。この鑑禎の話は『鞍馬蓋寺縁起』以外の書物には見えず、どこまで史実を伝えるものかわからない。ただし、清水寺の草創縁起と同様、南都(奈良)の僧が創建にかかわったとしている点は注目される。

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【多宝塔】


『今昔物語集』『扶桑略記』など諸書には別の伝承が見られる。それによれば、延暦15年(796年)、藤原南家の出身で造東寺長官を務めた藤原伊勢人は、自分の個人的に信仰する観音を祀る寺を建てたいと考えていた。伊勢人は、ある夜見た霊夢のお告げにしたがい、白馬の後を追って鞍馬山に着くと、そこには毘沙門天を祀る小堂(上述の鑑禎が建てたもの?)があった。「自分は観音を信仰しているのに、ここに祀られているのは毘沙門天ではないか」と伊勢人はいぶかしがった。ところが、その晩の夢に1人の童子が現われ、「観音も毘沙門天も名前が違うだけで、実はもともと1つのものなのだ」と告げた。こうして伊勢人は千手観音の像をつくって、毘沙門天とともに安置し、鞍馬寺を創建したという。この伝承は『日本後紀』延暦15年(796年)の条に東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に現在の鞍馬寺からほど近い貴船神社の神が現れ鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されていることからほぼ史実であると考えられる。

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9世紀末の寛平年間(889年 - 897年)東寺の僧・峯延(ぶえん)が入寺したころから、鞍馬寺は真言宗寺院となるが、12世紀には天台宗に改宗し、以後の鞍馬寺は長く青蓮院の支配下にあった。寛治5年(1091年)には白河上皇が参詣、承徳3年(1099年)には関白藤原師通が参詣するなど、平安時代後期には広く信仰を集めていたようである。『枕草子』は「近うて遠きもの」の例として鞍馬寺の九十九(つづら)折りの参道を挙げている。
鞍馬寺は大治元年(1126年)の火災をはじめとして、たびたび焼失している。江戸時代の文化9年(1812年)には一山炎上する大火災があり、近代に入って1945年(昭和20年)にも本殿などが焼失している。このため、堂宇はいずれも新しいものだが、仏像などの文化財は豊富に伝えられている。
昭和期の住職・信楽香雲(しがらきこううん)は、1947年に鞍馬弘教を開宗。1949年には天台宗から独立して鞍馬弘教総本山となっている。
京都の奥にある鞍馬山は山岳信仰、山伏による密教も盛んであった。そのため山の精霊である天狗もまた鞍馬に住むと言われる。鞍馬に住む大天狗は僧正坊と呼ばれる最高位のものでありまた鞍馬山は天狗にとって最高位の山のひとつであるとされる。

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【本殿金堂】

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そしてここからが、鞍馬山から貴船神社への山越えになります。
山越えって?思う人もいるらしいのですが、ここから一山越えた奥にある貴船神社まで歩いていくのですよ。
その途中に奥の院などもありますが、大人の足で1時間以上は必要です。

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いざ!出陣!!

次回はここから先をご紹介しましょう。



夏の京都 25 賀茂別雷神社 [寺社仏閣]

今日ご紹介する神社も春先に断念し参拝出来なかった神社になります。
もちろん、国宝、重要文化財、そして世界文化遺産にも登録されていますので見応えは十分でした。

ではでは。

賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、京都市北区にある神社。通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されています。

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【高札所、一の鳥居】

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創建については諸説ありますが、社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝えられています。

『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝えられています。
丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。
玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られています。国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことが伺えます。

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延暦13年(794年)の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂別雷神社」として名神大社に列し、名神祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。
明治の近代社格制度でも官幣大社の筆頭とされ、明治16年(1883年)には勅祭社に定められた。

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【二の鳥居及び世界文化遺産登録案内版】
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【楽舎、細殿・橋殿・土舎:国重要文化財】

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【土舎:国重要文化財】
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【細殿:国重要文化財、及び立砂】

そして、この上賀茂神社で有名な建造物のひとつが
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【楼門:国重要文化財】

そして
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【本殿:国宝】

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【庁屋(北神饌所):国重要文化財】

他にも多くの重要文化財が建立されています。

国宝

建造物
本殿 - 1863年建造
権殿 - 1863年建造

重要文化財(国指定)

建造物
本殿権殿取合廊 - 1863年頃建造
本殿東渡廊取合廊 - 1863年頃建造
西渡廊 - 1628年建造
透廊 - 1628年建造
渡廊 - 1628年建造
祝詞舎 - 1628年建造
塀中門 - 1628年頃建造
摂社若宮神社本殿 - 1628年建造
東渡廊 - 1628年建造
四脚中門 - 1628年建造
御籍屋 - 1628年建造
神宝庫 - 1628年建造
唐門 - 1628年頃建造
東御供所 - 1628年頃建造
直会所 - 1628年頃建造
楽所及び西御供所 - 1628年頃建造
幣殿 - 1628年建造
忌子殿 - 1628年頃建造
幣殿忌子殿取合廊 - 1628年頃建造
高倉殿 - 1628年頃建造
楼門 - 1628年建造
廻廊 2棟 - 1628年頃建造
摂社新宮神社本殿及び拝殿 2棟 - 1628年建造
摂社片岡神社本殿及び拝殿 2棟 - 1628年建造
片岡橋 - 明治初年建造「谷重雄」
拝殿(細殿) - 1628年建造
舞殿(橋殿) - 1863年建造
土屋(到着殿) - 1628年建造
楽屋 - 1628年建造
外幣殿 - 1628年建造
北神饌所(庁屋。奈良神社拝殿付属) - 1628年建造
(以下は「附(つけたり)」指定物件)
末社棚尾社本殿
摂社須波神社本殿
玉橋
末社杉尾社本殿
末社土師尾社本殿

本当は出来る限り見て廻りたかったのですが、なんと駐輪場を探すのに手間取ってしまい時間が無くなってしまったのです。
だから、今回はこれくらいで(^^)
それでも最低限のものは拝観出来たと思います。

そして、次回はここから一気に北に向かいます。
天狗、義経、と言えば・・・ な場所です。



夏の京都 22 北野天満宮 [寺社仏閣]

今日ご紹介するのは、1月にご紹介した北野天満宮になります。
人の多さに撮影を断念したので、今回リベンジを兼ねて参拝しました。前回説明はしましたので簡単に併せてご紹介します。

ではでは

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【西回廊(外回):重要文化財】

北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「星梅鉢紋」。
通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われています。
近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めています。

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【楼門】
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【中門(三光門):国重要文化財】
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【後門:国重要文化財】

そして
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【本殿:国宝】
本殿、石の間、拝殿、楽の間(合1棟)
慶長12年(1607年)に建立されました。
入母屋造の本殿と、同じく入母屋造の拝殿の間を「石の間」で接続して1棟とする、権現造社殿です。
当神社の場合は拝殿の左右に「楽の間」が接続して複雑な屋根構成となっていて、屋根はすべて檜皮葺き。
本殿、石の間、拝殿、楽の間を合わせて1棟としており、国宝に指定されています。

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摂社の彫刻も素晴らしいものばかりでした。
そして天満宮で忘れてはいけないものが牛です。
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牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされていますが、その理由については「道真の出生年は丑年である」「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの伝承があり、どれが真実なのか、それとも全て伝承に過ぎないのかは今となっては良くわからないものの、それらの伝承にちなみ北野天満宮には神使とされる臥牛の像が多数置かれています。
伝承のうち「牛が刺客から道真を守った」というのは和気清麻呂を祭神とする護王神社や和気神社の猪の伝承との関連性が強く認められているそうです。

そして、ここ北野天満宮のもうひとつ有名なものが【梅】になります。
道真は梅をこよなく愛し、大宰府左遷の際、庭の梅に上記の和歌を詠んだことや、その梅が菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来したという飛梅伝説ができたことから梅が神紋となり、約2万坪の敷地には50種1500本の梅が植えられています。
このような菅原道真と梅との結びつきから、命日にあたる2月25日に行われる梅花祭では「梅花御供(ばいかのごく)」とよばれる特殊神饌が献供されています。
これは明治以前に太陰暦が用いられていた時代には魂を「宥める」にあやかって菜種がささげられていたが、新暦になり、梅花祭の時期が変わったために梅の花が用いられるようになったとされています。
なお、2012年現在では梅花祭における菜種は、神職が身に付け奉仕を行うという形で残されています。
この神饌では白梅と紅梅を男と女に見立て、土器の上に仙花紙を筒状に丸めて乗せ、玄米を流し入れた土台にそれぞれの梅の枝が挿し込まれ奉げられるそうです。
白梅を挿したものが42個作られこれを「男の御供」、紅梅を挿したものを33個作り、「女の御供」と呼んでいるそうです。
また、菅原道真が大宰府へ流された際に帯同した従者が薨去以後遺品を京都へ持ち帰り、鎮魂のために毎年収穫された米を奉げていたという伝承に基づき、大判御供、小判御供という形で現代においても神事が受け継がれており、その従者達の末裔である七保会の面々によって御調が行われている。

で、その梅の木から収穫されて天日干しされた梅がちょうど拝見出来ました。
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春先のご紹介よりは見やすく分かり易いのではないかと思います。
これでリベンジは達成しました!!

次回は、この旅の最大の目的地のひとつ二条城をご紹介します。撮影不可な箇所も多かったので伝わらない部分もあると思いますが、ご勘弁ください!!





夏の京都 21 平野神社 [寺社仏閣]

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【南門:京都府指定有形文化財】

平野神社は、京都府京都市北区にある神社です。
式内社(名神大社)で、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「桜」。

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【中門:京都府指定有形文化財】

京都市北部、大内裏(平安宮)北方の平野の地に鎮座しています。
古くは桓武天皇(第50代)の生母・高野新笠の祖廟として平城宮で祀られ、桓武天皇による平安京遷都に伴って大内裏近くに移し祀られたとされています。当社は皇太子守護の性格を持つ神社で、平安時代には例祭「平野祭」には皇太子自らによって奉幣が行われました。また、多くの臣籍降下氏族から氏神としても崇敬される神社でもありました。
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【拝殿:国重要文化財】

そして見たかったのが
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【本殿:国重要文化財】
本殿は4殿2棟からなり、江戸時代前期の寛永年間(1624年-1644年)の西洞院時慶による再建になります。
春日造檜皮葺の4殿には、それぞれ今木神(第一殿)、久度神(第二殿)、古開神(第三殿)、比売神(第四殿)が祀られています。
第一殿と第二殿、第三殿と第四殿はそれぞれ空殿を挟んで連結する形式を採っており、この当社独特の形式は「比翼春日造(ひよくかすがづくり)」または社名から「平野造(ひらのづくり)」と称されています。
うち第一・第二殿は寛永3年(1626年)、第三・第四殿は寛永9年(1632年)の造営になり、本殿2棟に並んで南側には摂社・縣神社1棟が鎮座しており、これら3棟の社殿は玉垣で囲まれ、祝詞舎・中門を共有しています。
また、中門の左右には回廊が接続している。これらの社殿のうち、特に本殿2棟は国の重要文化財に指定され、縣神社・中門は京都府の登録文化財に登録されています。

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小さな神社なのですが、流石京都の神社ですね。下調べした甲斐がありました!!

次回はこの神社よりちょっとだけ南に進んだ場所にある全国的にも有名で世界文化遺産にも登録されている神社に向かいます。


夏の京都 20 妙心寺 [寺社仏閣]

今日ご紹介する寺院は、今年のお正月に何も知らずに通り過ぎてしまった寺院になります。

妙心寺、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院で、山号を正法山。
本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。
日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占めています。
近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には塔頭の数が46という多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成しているので有名。
平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている巨大な寺院です。

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【南門】慶長15年(1610年)建立。
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【勅使門:国重要文化財】慶長15年(1610年)建立。
平生は閉じられていますが、妙心寺住持の入山・晋山時に新住職はこの門より入られます。

そしてここから先の建造物がどれも巨大なんです。
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【山門:国重要文化財】
慶長4年(1599年)建立。五間三戸(正面の柱間5間のうち中央3間が通路)の二重門(2階建門)で、上層には円通大士(観音)と十六羅漢像を安置しています。

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【浴室:国重要文化財】明暦2年(1656年)の建立。
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【仏殿及び法堂:国重要文化財】
仏殿:他の諸堂より新しく、文政10年(1827年)に建立されました。入母屋造、一重裳階付き。
法堂:明暦2年(1656年)の建立。入母屋造、一重裳階付き。

本当は1棟毎に撮影したかったのですが盆飾りが施されていたので、今回はこんな感じでお願いします。

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【経蔵:国重要文化財】寛文13年(1673年)の建立。

そしてこの周りにある寺院が以下のとおりです。

山内塔頭

龍泉庵 - 長谷川等伯筆「枯木猿猴図」所蔵(実物は京都国立博物館に寄託)。
衡梅院
長興院 - 滝川一益が創建。
養源院
東海庵 - 庭園は史跡・名勝に指定。方丈前庭は築地塀で囲まれた一画に白砂を敷き詰め、帚目を付けただけのシンプルな庭。書院南庭は白砂に7個の石を並べた抽象的な庭である。
玉鳳院 - 花園天皇の離宮跡に建つ。関山慧玄像を祀る開山堂(別名微笑庵、重文)は室町時代の建築。庭園は史跡・名勝に指定。
東林院 - 枯山水庭園、水琴窟が見られる。沙羅双樹の花が咲く時期の特別公開で知られる。
大心院
雑華院
福寿院
如是院
海福院 - 福島正則開基。夬室智文開祖。公家町尻家(福島正則縁者)菩提寺。
養徳院
大雄院
桂春院 - 杉苔とツツジの植え込みが見どころの庭園は史跡・名勝に指定。
蟠桃院 - 前田玄以が創建。伊達政宗が大檀越に加わり伊達家菩提寺となる。
長慶院- 豊臣秀吉の正室である北政所の妹長慶院(木下家定娘)が創建。
雲祥院
光国院
隣華院 - 脇坂安治が創建。長谷川等伯筆方丈襖絵「水墨山水図」(国の重要文化財)、狩野永岳筆襖絵を所有。
智勝院 - 稲葉貞通が創建。
麟祥院 - 春日局開基の菩提寺、海北友雪筆方丈襖絵を所有。
大通院 - 一柳直末が創建。山内一豊夫妻霊屋がある。
天球院 - 寛永8年(1631年)池田輝政の妹天球院が創建。狩野山楽・山雪らが描いた方丈障壁画152面あまりが重要文化財。
金牛院
寿聖院
天祥院
春光院 - 堀尾吉晴が創建。重要文化財の南蛮寺(なんばんじ)の鐘と狩野永岳の方丈襖絵を所有。
徳雲院
大龍院 - 中村一忠が創建。
大法院 - 松代藩主・真田信之の菩提寺。兵法学者佐久間象山の墓(非公開)がある。
玉龍院 - 生駒一正が創建。
通玄院
霊雲院 - 枯山水庭園は史跡・名勝に指定。
聖沢院 - 国の重要文化財摩利支天画像を所蔵する。
天授院
退蔵院 - 日本の初期水墨画の代表作である如拙筆の国宝「瓢鮎図」を所有する(京都国立博物館に寄託)。
慈雲院
以上のうち常時一般公開しているのは退蔵院、桂春院、大心院のみ

境外塔頭

慧照院(右京区花園坤南町)
龍華院(右京区花園坤南町)
春浦院(右京区花園坤南町) - 室町時代の絵巻物で重要文化財の「福富草紙(ふくとみぞうし)」(土佐派の絵師・土佐行広周辺の作)を所蔵
金台寺(北区等持院西町)
仙寿院(右京区竜安寺衣笠下町)
多福院(右京区竜安寺衣笠下町)
龍安寺(右京区竜安寺御陵ノ下町)
霊光院(右京区竜安寺御陵ノ下町)
大珠院(右京区竜安寺御陵ノ下町)
西源院(右京区竜安寺御陵ノ下町

こんな感じなのです。
廻れません。この日は他にも沢山の予定がありましたので、今回は見送りで次回新春に予定していますので、その時にでもご紹介します。

次回は、ここから程近い場所にある神社をご紹介します。


夏の京都 19 西本願寺 2 [寺社仏閣]

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【大玄関:国重要文化財】
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【大玄関門】

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【唐門彫刻】

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【阿弥陀堂:国宝】
宝暦10年(1760)再建。東西42メートル、南北45メートル、高さ25メートル。中央に阿弥陀如来の木像、左右にインド・中国・日本の念仏の祖師七師と聖徳太子の影像が安置されています。

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【阿弥陀堂門:国重要文化財】

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【太鼓楼:国重要文化財】

と、いった感じで兎に角巨大な伽藍です。
国宝も重要文化財も多く、見学時間としては1時間半~2時間は欲しい場所ですね。

次回は妙心寺をご紹介します。





夏の京都 18 西本願寺 1 [寺社仏閣]

パソコン復活後、一回目の寺社仏閣のご紹介は、世界文化遺産にも登録されている寺院【京都、西本願寺】にします。
春に1度ご紹介しましたがイマイチな写真ばかりでしたので、撮り直しました。
詳細は前回の記事で(^^)
(※http://transit2012transit.blog.so-net.ne.jp/2014-01-08-1
とは思ったのですが、やはり酷いので再度作り直します。

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【御影堂門:国重要文化財】

西本願寺は、京都市下京区にある仏教寺院で、浄土真宗本願寺派の本山です。山号は龍谷山。西本願寺は通称であり、正式名称は「龍谷山 本願寺」、宗教法人としての名称は「本願寺」です。
京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれていて、真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」・下京区)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多いようです。

個人的に、今までそれなりに全国を廻って今のところ、一番好きな鐘楼がここ西本願寺の鐘楼です。
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【鐘楼:国重要文化財】
この翠色を使用している所が個人的には評価しています。鐘楼って、彫刻は素晴らしくても、ここまで気合を入れて建造している寺院は、今のところお目にかかっていません。

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【飛雲閣:国宝】
こちらは特別拝観時以外は非公開なので、撮影出来る2階部分のみですが・・・。金閣、銀閣と共に京都三閣になります。ちなみに豊臣秀吉が建築した【聚楽第】の遺構としても有名です。

境内南東隅の滴翠園(てきすいえん)内、滄浪池(そうろうち)と名付けられた池に面して建つ、3階建の庭間建築である。江戸時代の絵図には「御亭(チン)」として現れる。3階建であるが、各階は平面の大きさを変え、屋根などの意匠も左右相称を避け、変化に富んだ外観をもつ。寺に遺る江戸初期の文書『紫雲殿由縁記』(寛永15年成立、延亨4年増修)には豊臣秀吉の遺構だと記されていることから聚楽第の遺構との説も広く流布したが確証はなく、様式的にもやや新しく建築史からは否定的意見が多い。一方その1階平面が大書院対面所に共通するから寛永期に本願寺により建てられたのではないかとする説も唱えられたが(平井聖)、飛雲閣1階は一列型書院造の形を示し、一方対面所は3列型で先に触れたように真宗の本堂建築のスタイルを踏襲していると考えられるから両者が似るとするのは無理があり、さらに建築時期、建築理由など十分な説得性にも乏しく定説とは言えない。近年付属建物である黄鶴台から「寛永五年三月から寛永六年八月迄‥」という墨書が発見され(鶴岡典慶報告)、これが移築の時期を示すのではないかとの推測から、秀吉の京都新城、のちの高台院屋敷の「アコセガ池」畔から、後水尾上皇の仙洞御所造営(寛永4年着手)に先立ち解体撤去され、本願寺に移築された建物との説も登場した。 1階は池から船で直接建物内に入る形式の船入の間、上段・上々段を設けた主室の招賢殿、下段の八景の間、茶室憶昔席(いくじゃくせき)などがある。舟入の間は書院造の「中門」に当たり、ここ以外に正式な入り口は見当たらない。本来障壁画で飾らるべき上段床の間背面の壁が大障子となっている点や上段が部屋の中心軸上になく北側に寄っている点が特異である。柱や長押は角材を使っており数寄屋の手法は見られないが、これら上段や上々段には数寄屋の趣きが濃厚である。憶昔席の部分のみは建築年代が明確で、寛政7年(1795年)、茶人藪内竹蔭らによって増築されたものである。2階歌仙の間は、西側8畳の上段、東側16畳半の下段からなり、上段背面の壁には1階招賢殿と同様障壁画はなく窓が開けられている。隅には喫茶の用に供したものと推測される丸炉が切られている。下段三方の板戸の内外には御簾の下に座す三十六歌仙の像(現状は三十四歌仙)を華やかに描き、天井は金具に飾られた格天井、長押も格調高く打ちまわしており、総じて御殿風の趣きがある。3階は摘星楼と名付けた8畳で、長押は打たず天井も低い草庵風の意匠となっている(ただし天井は鏡天井)。奇木を床柱にした一畳の出床が設けられているがこれは後補。各階の主開口部はいずれも北に開けられており、特に1階の書院が南側に全く開口部をもたないのは書院造としては他に例がなく、また我が国の住宅建築の原則からも外れている。このことが元々南向きであったのではないかとの推測を生み、先に述べた「移築説」の根拠の一つとなっている。なお、元禄時代の状況を示すと考えられる1階平面図(本善寺所蔵)により、現況では北縁側(入り側)に設けられている腰障子はなかったと判り、当初の北立面は今より凹凸に富んでいたと考えられている。 飛雲閣は原則非公開であるが、外観のみ期日を限って特別公開される。また毎年5月21日の宗祖降誕会の際には室内に茶席(有料)が設けられる。
(※Wikipediaより抜粋)

文永7年(1272)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたのですが、その後比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転しました。
境内は国の史跡に指定され、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されています。

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【国宝:御影堂】
寛永13年(1636)建立。東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートル。中央に親鸞聖人の木像、左右に本願寺歴代門主の御影を安置し、重要な行事は、この御堂で行われます。

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【書院:国宝】

書院(対面所及び白書院) 御影堂の南西に位置する。近世書院造を代表する建築の一つである。入母屋造妻入り、本瓦葺きで、平面規模は桁行(本建物の場合は奥行)38.5メートル、梁行(間口)29.5メートル。南側の対面所と北側の白書院から成るが、両者は元来別々の建物であった。本建物を豊臣秀吉の伏見城の遺構とするのは俗説で、実際は後述のとおり江戸時代に西本願寺自身により建てられた建物である。 対面所の主室は欄間に雲と鴻(コウノトリ)を透彫りにするところから、「鴻の間」とも呼ばれる。広さは下段のみで162畳、上段を含め203畳、天井は格天井とする。襖、壁等の障壁画は本願寺お抱え絵師の渡辺了慶の筆と推定されている。正面奥(北側)は東西方向に長大な上段とし、中央に大床(おおどこ)、左に帳台構を設ける。上段の東には床高をさらに一段高めた上々段があり、違い棚と付書院を設ける。能舞台を持つ広庭に南面する広大なスペース、無目敷居による下段の三列二段の区画など、住宅建築としての書院造から儀式空間である対面所に特化した書院造の姿を見せる。この広大な平面については、真宗の本堂建築を基本に、その内陣に代えて上段、上々段、帳台構など書院造の要素を付加したものとの指摘もある。この対面所の西側には控えの間である雀の間、雁の間、菊の間があり、北側には納戸2室を挟んで白書院がある。白書院は西から東へ三の間、二の間、一の間(紫明の間)からなる。一の間には変形10畳の上段があり、床、棚、付書院、帳台構を備える。なお、対面所と白書院三の間は、畳を上げると板敷きで、能舞台としても使用できるように工夫されている。 寺の文書によれば、対面所は元和3年(1617年)の火災で失われた対面所に代わって火災の翌年に再建された建築で、当初は現御影堂付近に東向きに建てられていたが、御影堂再建に先立ち寛永7年(1630年)に元和焼失以前に対面所が建っていた現在地に90度向きを変えて移築された。このことは1969年に行われた半解体修理の際に発見された小屋組の梁の番付墨書によりはじめて確認された。この移転と同時に西側に雀の間などが増築されたと考えられ、のちに(安永6年か)北側に別棟であった白書院を移築合体させた。東縁側に面して枯山水の「虎渓の庭」が設けられている。 書院は原則非公開。期日を限って特別公開が行われる場合があるが、それ以外の時期の拝観には事前の許可が必要である。(詳細は下記「拝観」の項を参照) 黒書院及び伝廊 黒書院は書院の北東に位置し、伝廊とともに国宝に指定されている。桁行21.5メートル、梁行13.9メートル。寺の記録から明暦3年(1657年)の建立とわかる。屋根は寄棟造、こけら葺きで、主屋部分と庇部分に分けて2段に葺く。前述の白書院が表向きの接客空間で、金地障壁画や彩色透彫の彫刻などで意匠を凝らしているのに対し、黒書院は門主の生活の場としての内向きの空間である。屋根は前者の瓦葺きに対してこけら葺きとし、内部の意匠は水墨の障壁画、土壁、面皮柱、棹縁天井などを用いた数寄屋風の造りとする。東側の一の間(11畳)、西の二の間(20畳)のほか、広敷の間、鎖の間、茶室などがある。一の間の床、棚、付書院なども草庵風の造りである。建物の東北隅は、一部を床を張らない土庇とし、外部空間を屋根内に取り込んでいる。黒書院は現在も門主の私的空間として使用されているため非公開であるが、2012年11月に初公開された。
(※Wikipediaより抜粋)

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【唐門:国宝】
桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き(ひわだぶき)・唐破風(からはふ)の四脚門(しきゃくもん)で、伏見城の遺構。彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから"日暮らし門"とも呼ばれています。

境内の南側、北小路通に南面して建つ。境内東側の御影堂門、阿弥陀堂門がそれぞれの堂への入口であるのに対し、唐門は書院(対面所)への正門である。前後に計4本の控え柱をもつ四脚門形式で、屋根は檜皮葺き、正背面は唐破風造、側面は入母屋造の「向い唐門」である。総漆塗り、各部各所を中国の許由と張良の故事を題材とした極彩色彫刻と鍍金金具で装飾しており、日暮し眺めても飽きないとされることから「日暮門」の俗称がある。場所によっては厚さ60センチメートルにもなるこれら装飾彫刻の多くがのちに付加されたものであることが修理に際して明らかにされている。金具の各所には桐紋と菊紋が打たれ、寺院の門としては華麗に過ぎるところから聚楽第の遺構とも伏見城の遺構とも伝えるが確証はない。ただ様式から言えば天正銘が発見された大徳寺唐門に比べて明らかに後の時代に属するものと考えられ、その創建は慶長期以降と推定されるから聚楽遺構説は否定される。寺の記録『元和四戌午年御堂其外所々御再興ノ記』によれば、元和3年(1617年)の寺の火災の翌年に旧御影堂門(一説には阿弥陀堂門)を「御対面処ノ東」に移築したとあるから元和3年以前に本願寺にあったことが確認でき、のちに寛永初期、御影堂再建に先立つ一連の境内整備の際に現在地に再移築したと考えられているが、そもそもこの門が最初に本願寺に現れた年代や事情ははっきりしていない。
(※Wikipediaより抜粋)

次回まで西本願寺をご紹介します。



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