夏の京都 17 興正寺 [寺社仏閣]

2日目一箇所目は京都駅からほど近い場所にある【興正寺】です。

興正寺は、京都府京都市下京区にある浄土真宗の寺院で、山号は円頓山。
西本願寺の南隣に位置しています。
かつて西本願寺の脇門跡であったそうですが、明治9年(1876年)に真宗興正派として独立した際に、同派の本山となりました。
住職は門主の華園家。本山だけあって大伽藍なのですが、壮大な西本願寺の南に隣接しているため、一見西本願寺の伽藍の一部だと勘違いする人もいます。
また西本願寺の御影堂があまりに大きいため、興正寺の伽藍が比較的小さく感じられるのですが、実際には堂々とした大規模で伽藍です。

では、そんな興正寺をご紹介していきましょう。

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【山門】
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【阿弥陀門】

そして境内は
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承元元年(1205年)専修念仏は停止され、浄土真宗の宗祖である親鸞は越後に配流されたが、建暦元年(1211年)に赦免されました。
寺伝によると、親鸞は赦免された翌年の建暦2年(1212年)に京都に帰り、山城国山科郷に一宇を創建し「興正寺」と名づけたとし、その後、親鸞はこの寺を弟子の真仏上人(第2世)にまかせ、阿弥陀仏の本願をひろめるため関東行化に旅立ったとされています。
順徳天皇から聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜り、これより寺号を「興正寺」とし真宗念仏宣布の根本法城としたといいますが、真仏は親鸞が関東教化に遊行した際に下野国(現在の栃木県)に建てた専修寺を任されているなど、親鸞が山科に興正寺を建てたとするには根拠に乏しく、一般的には越後より直接関東方面へ旅立ったとする説が有力だそうです。
興正寺の寺伝では、第7世了源によって事実上創建されたとみなされるが、実際には、京都の五条西洞院にあった親鸞の住坊を元亨元年(1321年)頃に、了源が移転するなどして寺院として開いたのではないかと言われています。

嘉暦3年(1328年)前後、了源は、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都に移すべく寺基を洛東の汁谷に移し、光明本尊・絵系図・交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れたそうです。
この頃「阿弥陀佛光寺」の勅号を後醍醐天皇より賜る。この寺号は、後醍醐天皇が東南の方向から一筋の光が差し込むという夢を見たという場所に、興正寺の盗まれた阿弥陀如来の木像が出てきたという霊験に由来し、これを縁に山科より洛東渋谷に寺基を移したとも言われています。

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【御影堂】
その後、佛光寺は益々隆盛となったが、それとともに天台宗・延暦寺の弾圧が強まった。第13世光教の時には応仁の乱に巻込まれ諸堂を焼失。さらに文明13年(1481年)には、14世を継ぐべき経豪(後の蓮教)が本願寺の蓮如に帰依し、山科西野に再び「興正寺」として創建、有力末寺と共に当時山科にあった本願寺に帰参した。当時あった48坊のうち42坊が本願寺に帰属した。残された佛光寺は経豪(蓮教)の弟の経誉が継ぐが、寺勢は急激に衰え、代わって本願寺が台頭するところとなる。

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【阿弥陀堂】

蓮教は蓮如と力をあわせて念仏弘通に奔走したが、天文元年(1532年)8月、山科本願寺と共に兵火にかかって興正寺は焼失してしまいます。
永禄12年(1569年)、興正寺に本願寺顕如の次男顕尊が入寺し、石山本願寺の脇門跡に任ぜられる。
天正13年(1585年)第15世蓮秀は幸いにつつがなきをえた真影を供奉して、天台宗の寺があった大阪天満の地に、広大な堂舎を配した天満本願寺と共に真宗興正寺として法燈をかかげた。
天正19年(1591年)第17世顕尊の時に、豊臣秀吉による都市計画の一環で、本願寺と共に寺基を再び洛中の七条堀川に移す。この寺地にはその昔、時宗市屋派本寺の金光寺があったそうです。

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このように蓮教以来、興正寺は本願寺と行を共にしていたが、明治9年(1876年)、第27世本寂(華園摂信)は興隆正法の実を挙げるべく、真宗興正派として独立した。ただし本願寺派に残留した興正寺末寺も少なくなかった。
本堂は起工から128年の年数をかけ、日光東照宮の本廟・知恩院の三門とともに、日本三建築の一つと称せられた壮大華麗な大伽藍であったそうなのですが、明治35年(1902年)11月、不慮の火災により、本堂その他ほとんどを灰燼に帰する不幸が起きてしまいます。
第28世本常(華園沢称)は直ちに再建の工を起こし、明治45年(1912年)、現在の両堂大伽藍が同寺地に完成したそうです。結果、国の登録有形文化財を始め、重要文化財、国宝は保有していないのが残念。
しかし歴史はとても深く、一見の価値は十分にあります。

次回は隣接する巨大な伽藍をもつ【西本願寺】をご紹介します。


夏の京都 16 宝塔寺 [寺社仏閣]

萬福寺から京都駅まで自転車で帰っている途中に見かけた寺院でした。
予定では入っていなかったのですが、文化財の保有している寺院ではあったので、立ち寄る事とに。
ではではご紹介していきましょう。

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【四脚門:国重要文化財】
室町時代に建立。

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【山門】

宝塔寺は京都府京都市伏見区にある日蓮宗の寺院で、山号は深草山。旧本山は、大本山妙顕寺。奠師法縁。
日像が京都の七口(京都に入る7つの街道の入口)に建立した題目石塔の1つを日像の廟所に祀ったことによります。
平安時代に藤原基経の発願により創建され源氏物語にも言及される極楽寺が前身でした。

そして、本堂になります。
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【本堂:国重要文化財】
慶長13年(1608年)建立されたもので、入母屋造、本瓦葺き。
桁行七間、梁間五間。釈迦如来像、十界曼荼羅のほか、日蓮と日像の像を安置しています。

藤原基経が発願した極楽寺が宝塔寺の前身とされている。極楽寺は基経の没後、嫡子の藤原時平により899年(昌泰2年)建立されたもので、『源氏物語』「藤裏葉」帖に寺名が言及されている。
鎌倉時代末期、京都で布教にあたっていた日像は当時の極楽寺の住持・良桂と法論を行ったと言われています。
良桂は日像に帰依し、真言律宗寺院であった極楽寺は延慶年間(1308 - 1311年)日蓮宗に改宗しました。
興国3年/康永元年(1342年)日像は妙顕寺で入寂、遺言により当寺において荼毘に付されました。
寺は1467年(応仁元年)応仁の乱で焼失後、長らく再建されなかったのですが、1590年(天正18年)8世日銀が伽藍を再建しました。

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【多宝塔:国重要文化財】
室町時代に建立されたもので、京都市内の多宝塔では最古のものとさてれいます。行基葺という非常に珍しい瓦屋根が特徴的です。
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【奈良の元興寺:l国宝】(※2014年1月4日撮影)
上記のように、2月にご紹介した寺院の中では奈良の寺院で世界文化遺産にも登録されている【元興寺】でも見られます。
これを見れただけでも十分価値はありますね。

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この階段を登って行くと、他にも以下のようなものがあるらしいのですが時間もなかったので断念。

昭宣堂 - 昭和16年(1941年)建立。前身寺院極楽寺の開祖藤原基経(昭宣公)の宝篋印塔を安置する。
七面堂 - 寛文6年(1666年)に勧請された七面天女を祀る。
日像廟 - 日像は興国3年/康永元年(1342年)日像は妙顕寺で入寂し、当寺に葬られた。題目笠塔婆を安置する。
三十番神堂
千仏堂

今年の年末年始も一応、伏見、宇治、大原を含め、滋賀県を6日間かけて巡りますので、その時に機会があれば(^^)

一応、ここまでが夏の京都の旅1日目になります。明日から2日目になります。
明日以降はこれまた有名な寺院などが続きますが、ご紹介する寺院は以下の場所になります。

妙心寺【国宝、重文】
平野神社【重文】
北野天満宮【国宝、重文、世界文化遺産登録】
上賀茂神社【国宝、重文、世界文化遺産登録】
二条城【国宝、重文、世界文化遺産登録】
西本願寺【国宝、重文、世界文化遺産登録】
鞍馬寺【国宝、重文、史跡】
曼殊院(門跡)【国宝、重文】
円通寺【重文、名勝】
修学院離宮
永観堂禅林寺【国宝、重文】
貴船神社
興正寺
南禅寺【国宝、重文】

後半も見所満載なんで長いですがお付き合いくださると幸いです(^^)


次回は、興正寺から始まります。


夏の京都 15 萬福寺 4  [寺社仏閣]

今日が4回目になる萬福寺の記事。
昨日までも重要文化財建造物をご紹介してきましたが、今回も多くの建造物をご紹介します。

最初は
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【斎堂:国重要文化財】
食堂であり、緊那羅王像を安置する。斎堂前には開梆(かいぱん、「ぱん」は木偏に邦)という巨大な木製の魚が吊り下げられている。これは叩いて食事や法要の時間を知らせるためのものであり、木魚の原型と言われている。開版、魚梆、飯梆などとも書く。

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【伽藍堂:国重要文化財】
関聖大帝菩薩(関羽)を安置し背後に華光菩薩を安置しています。ただし、華光菩薩の像は、関帝ではなく、明代まで盛んに祀られていた、道教における馬元師、仏教では華光と呼ばれる武神であるという説もあります。
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【回廊(附):国重要文化財】
もちろんこちらの回廊も重要文化財になります。

そして最後にご紹介するのが松隠堂になります。
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【通玄門:国重要文化財】
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【開山堂:国重要文化財】
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【松隠堂客殿:国重要文化財】

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本当に巨大な伽藍です!! 
しかも中国式にこだわった様式が本当に良い味を出していました。
個人的には全国廻っている寺院の中でもBset10に入る寺院でした。

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次回はこの寺院の隣の頭塔をご紹介します。

夏の京都 14 萬福寺 3 [寺社仏閣]

萬福寺 3回目は大雄宝殿からご紹介します。

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【大雄寶殿:国重要文化財】
寛文8年(1668年)の建立。日本の一般的な寺院の「本堂」「仏殿」にあたる建物であり入母屋造。
2階建てに見えるが一重裳階(もこし)付きです。
本尊釈迦三尊像(脇侍は阿難と迦葉)、十八羅漢像を安置する。建物の前には白砂を敷いた「月台」があります。

この建造物の窓も見所。
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様々な種類の窓を用いているのもこの萬福寺の特徴です。
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【大雄寶殿(後姿)】
ちなみにこの後姿が今年の【 JR東海 そうだ京都行こう 】のポスターの使用されています。
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こんな感じです(^^)僕の写真だとイマイチですが、やはりプロの写真家が撮ると行きたくなりますね!!

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【回廊:国重要文化財】

そして拝観出来る敷地内で一番奥にあるのが次の法堂になります。ちなみに先ほどのポスターの中の家族で座禅をしている建造物になります。
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【法堂:国重要文化財】
寛文2年(1662年)の建立。一重入母屋造。


夏の京都 13 萬福寺 2 [寺社仏閣]

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【天王殿:国重要文化財】
寛文8年(1668年)の建立で一重入母屋造。
本堂の手前にこのような堂を置くのは中国式の伽藍配置で、日本では非常に珍しい配置になります。
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内部には弥勒菩薩の化身とされる布袋像を安置されています。この像は日本で著名な半跏思惟形の弥勒菩薩像とは全く異なり、太鼓腹の布袋像として表されている。
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【持国天】【増長天】【多聞天】【広目天】
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【韋駄天像】
他に堂内左右に四天王像、布袋像の背後に韋駄天像を安置しています。
これらの像は来日していた明の仏師・范道生の作で、いずれも中国風の様式で造られているのも見所。

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【鐘楼:国重要文化財】
2階建てで、階上に梵鐘を吊る。鐘楼前には偈(げ)の書かれた巡照板が下げられています。
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【鼓楼:国重要文化財】
鐘楼と対称位置に建ち、階上に太鼓を安置している日本では珍しい建造物です。
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【壽塔:国重要文化財】
詳細不明。
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【東回廊:国重要文化財】
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【中和庭】
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【鐘楼】

どうでしょう、本当に重要文化財が満載なんです。日本の歴史を紐解く上で非常に重要な建造物が31棟もあるのですから、見所も満載なはずです。ただ公開していない建造物等も多くありますけど、次回はこの寺院の真髄に入っていきます。



夏の京都 12 萬福寺 1 [寺社仏閣]

今日からご紹介します寺院が個人的に今回の京都の旅で一番来たかった寺院【萬福寺】を4回にわたってご紹介します。
何と国の重要文化財が31棟もある巨大な寺院なのです。しかもこの萬福寺の最大の魅力は、中国式伽藍なんです。したがって日本の代表的な伽藍の雰囲気とは一風違った風景が広がりますよ。
ではでは境内へと入っていきましょう。

最初に伽藍配置をご紹介します。
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兎に角、巨大な伽藍です。
伽藍は西を正面とし、左右相称に整然と配置されています。
総門をくぐると右手に放生池、その先に三門があり、三門の正面には天王殿、その奥に大雄宝殿、さらに奥に法堂が西から東へ一直線に並んでいます。
これら諸堂の間は回廊で結ばれています。天王殿と大雄宝殿の間をロの字状に結ぶ回廊に沿って右側(南側)には鐘楼、伽藍堂、斎堂があり、左側(北側)には対称的な位置に鼓楼、祖師堂、禅堂が建っています。
これらの建物は日本の一般的な寺院建築とは異なり、中国の明時代末期頃の様式で造られ、材料も南方産のチーク材が使用されています。
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「卍字くずし」のデザインによる高欄、「黄檗天井」と呼ばれるアーチ形の天井、円形の窓、扉に彫られた「桃符」と呼ばれる桃の実形の飾りなど、日本の他の寺院ではあまり見かけないデザインや技法が多用されているのも必見。これらのほか、三門 - 天王殿間の参道を左(北)に折れたところに開山の塔所である松隠堂と呼ばれる一画があり、開山堂、舎利殿などが建ちます。

では伽藍の中へ入っていきましょう。
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【総門:国重要文化財】
寛文元年(1661年)の建立。
瓦屋根の中央部分を高く、左右の部分を低く、段差を設けているのは中国風で、日本の一般的な社寺建築には見かけない形式です。
屋根上左右に乗る魚のようなものは鯱ではなく、摩伽羅という想像上の生物でヒレの代わりに足が生えています。マカラはサンスクリット及びパーリ語でワニを表す言葉で、東南アジアでは仏教寺院の入口などに用いられていいます。

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【中門】頭塔門
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【山門(入山門):国重要文化財】
延宝6年(1678年)の建立。三間三戸二重門である。「三間三戸」は門の正面柱間が3間で、3間すべてが通路になっているものを指します。
(※日本の禅宗寺院の三門は一般的には「五間三戸」であり正面柱間が5間に対して通路が3間)。
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いよいよこの先に天王殿がありその中に数多くの仏様が祀られていますが、それはまた次回。




夏の京都 11 平等院 [寺社仏閣]

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この日の最大の目的地のひとつです。世界文化遺産にも登録されている【国宝:平等院鳳凰堂】を一目見ようと来ました。
10円玉の裏に書かれたこの建造物が、今年の春に平成の大修理が終了したので(^^)。
岩手の無量光院跡の建造物もここ平等院鳳凰堂を模写して建造したそうです。さぁてどのような建造物か・・・非常に楽しみです!!
では、参りましょう!!
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【表門】

そして直ぐに姿を現します。この建造物は日本でも非常に重要な建造物ですのでいつもにないくらい詳しくご説明します。
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【平等院鳳凰堂:国宝】

 平等院鳳凰堂は天喜元年(1053年)に建立された阿弥陀堂です。
 「鳳凰堂」の呼称は後世のもので、平安時代の記録では「阿弥陀堂」あるいは単に「御堂」と呼ばれています。
堂内須弥壇の格狭間に嵌め込まれた金銅板の延宝8年(1680年)の刻銘に「平等院鳳凰堂」とあり、江戸時代には「鳳凰堂」の呼称があったことがわかる。江戸時代の地誌『山州名跡志』(正徳元年・1711年)にも「鳳凰堂」とみえます。
 本尊阿弥陀如来像(国宝)は仏師定朝の確証ある唯一の遺作です。本尊を安置する須弥壇は螺鈿(らでん)や飾金具で装飾されていたが、螺鈿はすべて脱落している。現状では剥落が著しいが、堂内の扉や壁は極彩色の絵画で飾られ、天井や柱にも彩色文様が施されていました。
 長押(なげし)上の壁には楽器を奏で、舞いを舞う姿の供養菩薩像の浮き彫り(現存52体)があり、本尊の頭上には精巧な透かし彫りの天蓋(てんがい)を吊る。
 鳳凰堂は、建造物としては中堂、北翼廊、南翼廊、尾廊の4棟からなります。
 阿字池の中島に東を正面として阿弥陀如来坐像を安置する中堂が建ち、その北と南(向かって右と左)にそれぞれ北翼廊、南翼廊が接続して建ち、中堂の西(背後)に接続して尾廊が建っています。
 中堂は石積の基壇上に建ちます。
 この基壇は壇上積基壇と称し、地覆石、羽目石、束石(つかいし)、葛石(かつらいし)からなる格式の高いものです。
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【鳳凰堂中堂】
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 中堂の外観は2階建てのように見えるが、建築構造としては一重裳階付(いちじゅうもこしつき)です。
 裳階とは、身舎(もや、建物の主要部)の周囲に差し掛けられた屋根の部分を指します。
 身舎は入母屋造、本瓦葺き。組物は三手先(みてさき)、中備(なかぞなえ)は間斗束(けんとづか)、軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)とし、棟上に一対の銅製鳳凰を安置しています。
 なお、保存上の観点から、1968年以降、棟上にはレプリカの鳳凰が設置されており、実物は別途保管されている。
 垂木は地垂木を円形断面、飛檐垂木(ひえんたるき)を方形断面とする「地円飛角」という、奈良時代以来の形式です。
 軒には支輪を設け、支輪部分には宝相華文を描いています。身舎の規模は桁行(正面)3間、梁間(奥行)2間とする(ここで言う「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語。以下同じ)。
 
 身舎は円柱を頭貫(かしらぬき)と内法長押(うちのりなげし)で固める。この3間×2間の身舎の周囲に東西南北とも1間の裳階が付きます。
 裳階の屋根は本瓦葺、軒は二軒繁垂木で、組物は平三斗、中備は間斗束である。裳階の垂木は身舎と異なり、地垂木、飛檐垂木ともに面取りの角垂木である。裳階柱と身舎との間には繋虹梁(つなぎこうりょう)を渡す。 裳階柱は大面取りの角柱とし、これらを頭貫と飛貫(ひぬき)で繋ぐ。ただし、飛貫は当初はなく、後世補強のために入れたものである。裳階の正面(東面)中央間は屋根を一段高く切り上げて、外観に変化をもたせるとともに、池の対岸から本尊阿弥陀如来像を拝するように設計されています。
 身舎東正面中央間の扉を開けると、その内側の格子には軍配形の窓が開けられ、阿弥陀如来の面相が見えるようになっている。裳階屋根上には高欄を設けるが、これは実用的なものではなく、通路としては利用できません。
 日本の一般的な仏堂建築は身舎の前後または四周に「庇」と呼ばれる部分があり、裳階が付く場合は、庇のさらに外側に付けるが、鳳凰堂中堂は身舎と裳階のみで庇のない特徴的な構造になる。

 身舎の円柱は径2尺(約60センチ)ある太いものであるが、周囲を裳階がとりまいているため、外観では身舎の
太い柱が目立たなくなっており、これによって建物全体を軽快に見せている。裳階柱も幅8寸5分(約27センチ)あるが、大面取りが施され、断面八角形に近い柱形状になっているため、実際より細く見えます。
 中堂は前述のように身舎と裳階のみで庇を設けない特異な構造であることに加え、屋根の出が非常に大きく、構造的には不安定な建物になっていて、身舎の屋根の先端部は、裳階屋根の先端部や基壇の端部よりもさらに外側に突き出ています。
 明治期の修理以前の古写真をみると、中堂には、屋根の垂れ下がりを防止するための突っかえ棒が設置され、外観を損ねていました。こうした構造に加え、境内からは創建当初の瓦がほとんど出土しないこともあり、当初の鳳凰堂は屋根に大きな荷重の掛かる本瓦葺きではなく、木瓦葺きだったのではないかと推定されています。木瓦葺きとは、外観を瓦に似せた板で屋根を葺くもので、平安時代の実物としては中尊寺金色堂のものが唯一現存するのみです。
 鳳凰堂の修理は、近代以降では1902年から1907年に半解体修理、1950年から1957年に解体修理が行われました。
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(※クリアファイルを撮影)
 次に中堂の室内の状況について説明します。
 前述のように身舎は正面3間、側面2間であるが、裳階の西側(裏側)部分を室内に取り込んでおり、この部分を含んだ全体を板敷の1室としている。裳階の東・北・南の3面は吹き放し(建具や壁を入れない)とし、切目縁(簀子縁)を設けられています。すなわち、石積基壇の上に直接、縁を乗せた形になります。
 室内は身舎の後寄りに、中央部分を石敷きとした須弥壇を設け、本尊の定朝作阿弥陀如来坐像を安置する。阿弥陀像の頭上には木造天蓋を吊る。須弥壇周囲には高欄を設け、後方左右には壇上に上がる階段を設ける。
 須弥壇の外面は漆塗とし、螺鈿で装飾されていたが、螺鈿はすべて脱落している。中堂の柱間装置は以下のとおりです。
 身舎正面(東面)は3間とも両開き板扉で、室内側には格子を立て込む。
 身舎側面(北・南面とも)の前間は正面と同様、両開き板扉で、室内側には格子を立て込む。
 身舎側面(北・南面とも)の後間は、外面は腰長押を入れ、それより上を連子窓、下を土壁としている。ただし、この連子窓は見かけだけで、室内側は全面板壁になっている。
 前述の腰長押も外面だけに打たれている。身舎の西側は中央間を板壁、その両脇の間は開放とし、裏手の裳階部分と一体の空間を形成している。
 身舎西側中央間の板壁は他の壁と接していない独立壁で、本尊阿弥陀像の背後に位置することから「仏後壁」(ぶつごへき)と称される。
 西側裳階部分は、西面中央間のみを両開き板扉(尾廊へ通じる)とし、他の柱間は土壁とする。身舎の内法長押上の小壁は外見上は土壁に見えるが、実際は板壁に土を塗ったものである。
 東西南北各面の内法長押より上、頭貫より下の壁面には計52躯の雲中供養菩薩像を取り付けていたが、うち半数の26躯は平等院ミュージアム鳳翔館に移動している。室内には前後方向に虹梁を2本掛け渡し、組入天井を支えている。
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 堂内は、板扉と板壁には『観無量寿経』の所説による九品来迎図などの壁扉画(へきひが)があり、柱、長押、貫、組物、天井などの部材はすべて彩色が施されていたが、現状ではいずれも剥落が著しい。正面3間の扉(計6面)、側面(北・南面)前間の扉(計4面)、側面後間の板壁(北面と南面の2面)には九品来迎図が描かれ、背面裳階中央扉(2面)には日想観図が描かれていた。
 日想観とは、『観無量寿経』の所説によるもので、西方阿弥陀浄土に往生するための16の段階の一つとして、沈みゆく夕陽を観想するものである。仏後壁(身舎西側中央壁)の前面と背面にも絵画がある。このうち、背面は九品来迎図の一部であるが、前面の絵は剥落が激しく、主題や制作年代について諸説ある。
 板扉のうち、正面中央間のものは傷みが激しかったため、江戸時代の寛文10年(1670年)に新しい扉に取り換えられ、絵も新たに描かれている。扉と板壁以外の堂内の部材は、宝相華文を主体とする彩色文様で装飾されていた。柱は宝相華文の水平の帯で区切り、宝相華文を背景にして菩薩像や童子像を描く。長押、頭貫などの水平材は、花文を一定間隔で描き、残りの空間は繧繝彩色の条帯文とする。
 中堂の柱間装置のうち、正面各間と側面前間は創建当初から板扉であったが、側面後間と仏後壁は以下のような改造を経ていることが解体修理時の調査で判明しています。
 (当初)側面後間は板扉、仏後壁は土壁であり、背面裳階部分は腰長押から上を外面は連子窓、室内側は板扉としていた。
 (第一次改造)創建直後、または創建時の工事途上に側面後間の板扉を、外面連子窓、内面土壁に変更した。
 (第二次改造)仏後壁を前面板壁、背面土壁にした。側面後間と仏後壁に補強のために筋違を入れた。各面の内法長押上の小壁を土壁から板壁に変えた。
 (第三次改造)側面後間の土壁を板壁とし、仏後壁の背面も板壁にした。側面後間と仏後壁の筋違を除去した。各面の小壁は、内法長押の上、頭貫の下にあたる位置に飛貫を挿入した。背面裳階部分の連子窓はこの時に廃されて土壁になったとみられる。
 
 以上の改造がいつ行われたかは正確には不明であるが、建築史家はおおむね13世紀までには第三次改造が終わったとみている。
 改造の理由については、前述のとおり、当初の鳳凰堂は木瓦葺きであったとみられ、木瓦葺きからより重量の大きい本瓦葺きに変更するに際して、補強のために改造が行われたとみられる。
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 南北の翼廊は形式が等しいため、まとめて説明する。
 北翼廊、南翼廊とも切妻造、本瓦葺き、一重二階建て。
 各翼廊は中堂の側面から南北方向に延び、途中で東方向に直角に折れ曲がっており、平面はL字形を呈する。桁行は折曲り8間、梁間は1間である(折曲り8間とは、L字形の外側の柱間を数えた数字である)。直角に曲がる角の部分には隅楼があり、この部分のみ3階建てになる。
 組物は1階が二手先、2階が平三斗で、軒は二軒繁垂木とする。
 1階柱は頭貫、飛貫、腰貫で固めるが、創建当初は飛貫、腰貫はなく、後から補強のために入れたものである。
 1階の頭貫から下は建具や壁を入れず開放とし、床も張らない。天井は組入天井とし、虹梁と蟇股で支える。2階は階高が低く、人が立って歩ける高さではないが、儀式等の際に人が立ち入ったことも想定されている。
 2階内部の構架は二重虹梁蟇股で、天井は張らず、垂木がそのまま見えている。隅楼の3階部分は方3間、宝形造、本瓦葺きで、屋根頂部に瓦製の宝珠を乗せる。組物は出組、軒は二軒繁垂木とする。
 東西南北面とも中央間を板扉、両脇間を連子窓とする。3階部分には下から昇ることはできず、人の入る空間はない。
 南北翼廊は修理によって取り換えられた部材が多い。各翼廊に16本ずつの柱があるが、うち古いものは北翼廊の柱1本、南翼廊の柱5本のみで、他の柱は明治の修理時の取り換え材である。
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 尾廊は中堂西側裳階に接続し、西側に真っ直ぐ伸びる。切妻造、本瓦葺き、平屋建てで、桁行7間、梁間1間とする。組物は平三斗、内部の構架は二重虹梁蟇股とし、天井は張らない。
 桁行7間のうち、中堂裳階に接する第1間は片引戸、以下は第2・3・6・7間を花頭窓、第4・5間を格子窓とする。尾廊は第5・6間の部分で池をまたいでおり、その部分の柱(西から3本目)は池中に立っている。尾廊の窓や床は室町時代頃に設けられたものとみられる。
 尾廊の柱は大部分が修理によって取り換えられているが、南側の第3間の左右の柱のみは古い。
鳳凰堂の建つ中島と周囲の池については、1990年以降の発掘調査により、拳大の玉石を敷き詰めた平安時代の洲浜が出土し、創建当初の状況が明らかになっています。
 近代以降、中島の面積が広げられているが、平安時代には島の面積は狭く、ほとんど堂と同じ程度の大きさで、両翼廊の端は池に突出していました。
 翼楼の基壇も当初はなかったとみられる。池の対岸(東岸)には、鳳凰堂の阿弥陀如来像を礼拝するための「小御所」という建物の存在したことが福山敏男によって早くから明らかにされていたが、発掘調査により小御所の遺構も検出されています。
 鳳凰堂には52049枚の瓦が使用されており、建立当時は木製瓦を使った木瓦(こがわら)葺きでしたが、約半世紀後の康和3(1101)年の修理で粘土瓦を使った総瓦葺きに改修されました。
 粘土瓦は平等院の荘園であった「玉櫛荘(たまくしのしょう)」(現在の大阪府八尾市)の向山瓦窯跡で1100年初頭に製造されたとされ、2012年9月に始まった改修作業でも平安期の陶器瓦がまだ1560枚そのまま屋根に残っていることが確認されました。

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【庭園】
中島に鳳凰堂の建つ阿字池を中心とした浄土式庭園。国指定の名勝。平成2年(1990年)からの発掘調査により平安時代築造の州浜が検出され、現在は創建当初の姿に復元整備されている。鳳凰堂への入堂も池の北岸から2つの小橋を渡る当初の形式に復されています。

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【浄土院】
浄土院は平等院の塔頭で、浄土宗の栄久(えいく)上人が、明応年間(15 世紀後半)に平等院修復のために開創した寺と伝えられています。 文化財である阿弥陀如来立像、帝釈天立像、養林庵書院障壁画などを管理しています。

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【平等院蓮】

説明が非常に長くなりましたが、これでも足りないくらいの国宝建造物です。
時間があれば是非一度拝観して下さい!!

次回は、個人的に今回の京都の旅で一番行きたかった最大の目的地の寺院です。
さぁて何処でしょうか・・・。



夏の京都 10 宇治神社 [寺社仏閣]

宇治神社は、京都府宇治市にある神社で、式内社で旧社格は府社。
昨日ご紹介しました宇治上神社とは対をなしています。

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【宇治神社】

創建年代などの起源は明らかではありません。
当社のすぐ近くには宇治上神社がありますが、当社とは二社一体の存在であったそうです。
宇治上神社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれています。
宇治上神社の境内外には「天降石」や「岩神さん」と呼ばれる巨石があり、磐境信仰による創祀という説もあります。

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【拝殿(桐原殿】
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【中門】

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【本殿:国重要文化財】
本殿は三間社流造、檜皮葺。鎌倉時代後期の造営とされ、国の重要文化財に指定されています。

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こちらの神社も敷地こそ広くないものの、重要文化財の建造物を保存している国の重要な神社のひとつとなります。
次回は、ここから自転車で10分ほどのところにある【10円玉】と言えばわかるあの寺院に向かいます!!




夏の京都 9 宇治上神社 [寺社仏閣]

伏見稲荷大社から自転車で50分くらい南下した先にあります。

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【世界文化遺産:宇治上神社】
宇治上神社(うじがみじんじゃ、うじかみじんじゃ)は、京都府宇治市にある神社で、式内社で、旧社格は府社。
隣接する宇治神社とは対をなしています。ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の一つとして登録されている。

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創建年代などの起源は明らかではありません。
当社のすぐ近くには宇治神社がありますが、当社とは二社一体の存在であったようです。
当社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれています。
当社の境内外には「天降石」や「岩神さん」と呼ばれる巨石があり、磐境信仰による創祀という説もあります。

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【本殿及び拝殿:国宝】
本殿は平安時代後期の建立で、神社建築としては現存最古とされています。
流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、一間社流造の内殿3棟が左右に並ぶ(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。内殿は左殿(向かって右)に菟道稚郎子命、中殿に応神天皇、右殿(向かって左)に仁徳天皇を祀る(左殿・中殿・右殿を順に第一殿・第二殿・第三殿ともいう)。左殿と右殿は組物が三斗で、組物間に蟇股を置くなど、形式・規模がほぼ等しいが、細部の様式から左殿の方が年代が上がるとみられています。
中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木とし、蟇股を用いないなど、形式にも違いがあります。
外側の桁行5間、梁間3間の建物は内殿の覆屋にあたるが、内殿と覆屋は構造的に一体化しており、左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっています。
左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されている。左殿の扉絵は唐装の童子像2体、右殿の扉絵は束帯・持笏の随身像2体で、剥落が多いが、平安時代にさかのぼる垂迹画の作例として貴重であり、国宝に指定されています。

拝殿は鎌倉時代前期の建立で、寝殿造の遺構といわれています。
切妻造、檜皮葺き。桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇を付す。桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成する。建物右端の庇部分も1室となり、これらに挟まれた中央の桁行5間 x 梁間3間分を広い1室とする。屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根を設けられています。
切妻屋根と庇屋根の接続部で軒先の線が折れ曲がっており、こうした形を縋破風(すがるはふ)と称する。周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、蔀戸を多用した住宅風の構えである。本殿同様、国宝に指定されています。

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【摂社春日神社本殿:国重要文化財】
明治45年2月8日指定

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然程規模は大きくありませんが、立派な国宝建造物です!!
次回はこの神社と対を成す神社、宇治持神社をご紹介します。



夏の京都 8 伏見稲荷大社 千本鳥居 [寺社仏閣]

前回の京都、伏見稲荷大社の続き。

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伏見稲荷大社で有名なスポットと言えば、やはり【千本鳥居】でしょう。

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中へと進みましょう!!

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やはりカップルが多いようです!! 
この先に一ノ峰、二ノ峰・・・と続いて行くようですが、往復1時間以上かかるらしいのでここで断念!! それはまた暇な時にでも・・・。

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朱色と翠色のコントラストが本当に綺麗でした!!
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そしてここから自転車かっ飛ばして、京都市内から離れます。
ってか、行くまでも目的地が京都市内でない事を知りませんでした。

では、また次回。




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