山梨観光 13 恵林寺 1 [寺社仏閣]

恵林寺は、山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院で、山号は乾徳山(けんとくさん)。
臨済宗妙心寺派に属する寺院で、甲斐武田氏の菩提寺として知られています。

2年前に一度ご紹介したのですが、近所の寺院に拝観に行ったので再度拝観してきました。
昔の写真は酷かったので(^^;)

ではでは。

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鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢窓疎石を招き開山しました。
二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされています。もとは鎌倉の円覚寺派に属し関東準十刹の寺格を有していたそうです。

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天文10年(1541年)には武田晴信(信玄)が臨済宗妙心寺派の明叔慶浚・鳳栖玄梁を招いて再興し、永禄7年(1564年)には武田氏により寺領が寄進され、永禄7年(1564年)に美濃崇福寺から快川紹喜を招きます。
天正4年(1576年)4月には、快川を大導師に、嫡男の勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われました(「天正玄公仏事法語」)。

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天正10年(1582年)4月3日、甲州征伐で武田氏が滅亡した後に恵林寺に逃げ込んだ六角義弼の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって焼き討ちにあってしまいます。
この際、快川紹喜が燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と偈を発して快川紹喜は焼死したといわれ、後代には快川の遺喝として廣く知られ、再建・改築された三門の両側にも、この偈が扁額として掲げられているのです。

恵林寺 境内 柳沢吉保夫妻の墓 2.jpg

信長横死後に甲斐を領した徳川家康により、天正の織田勢焼き討ちを逃れ、那須の雲巌寺に遁れ潜んでいた末宗瑞曷を招き再建されます。また、江戸幕府の将軍徳川綱吉時代に側用人であり、晩年に甲府城の城主となった柳沢吉保の墓所にもなっているので有名です。


では、伽藍のご紹介を。
明治38年(1905年)の出火で焼失した後、再建したものもありますが(本堂・庫裡)、桃山様式の四脚門(国の重要文化財)や、夢窓作といわれる庭園(国指定の名勝)があります。

次回はそんな境内を詳しくご紹介します。


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