川越観光 【日枝神社~三芳野神社~本丸御殿】  [寺社仏閣]

喜多院の山門の前を走る道路を挟んで反対側にある神社が日枝神社。
DSC_0153.jpg
DSC_0143.jpg
DSC_0145.jpg
DSC_0146.jpg
日枝神社は、埼玉県川越市小仙波町の神社。旧社格は県社。
もともと喜多院の境内にあったらしいのですが、県道建設のため大正時代に仙波古墳群という前方後円墳を開削して喜多院門前に移転したそうです。
何とも罰当たりな事を・・・・。
DSC_0148.jpg
【国重要文化財:本殿】
本殿は朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されている。拝殿は老朽化が深刻だったため、近年、新拝殿が再建された。

円仁(慈覚大師)が喜多院を創建(天長7年・830年)したおりに、その鎮守として貞観2年(860年)に坂本の日吉大社を勧請したものであるといわれている。東京赤坂の日枝神社(旧官幣大社)は、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したものであるそうです。

DSC_0152.jpg
こちらがその古墳らしいです。

で、ここからまた歩きます。

DSC_0184.JPG
DSC_0189.jpg
三芳野神社は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。平成元年(1989年)に大修理が行われ、平成4年(1992年)に完成。埼玉県指定文化財。

なんと、この境内が発祥のものがあります。
それが【童謡:とうりゃんせ】です。
童歌「とおりゃんせ」はこの三芳野神社境内が舞台といわれます。
川越城築城により天神曲輪に位置することになり「お城の天神さま」と呼ばれていたそうです。
城内にあることから一般の参詣ができなくなったそうですが、信仰が篤いことから時間を区切って参詣することが認められました。
しかし、この天神さまにお参りするには川越城の南大手門より入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する細道をとおってお参りしなければならなかったそうです。
また、一般の参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことをさけるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられました。そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い……」と川越城内の子女の間で唄われるようになり、それが城下に流れ、武士や僧侶、町人たちによって江戸へ運ばれ、やがて全国へ広まって行ったのだとか。

納得・・・しました。

で、その先にあるのが
DSC_0197.jpg
DSC_0199.jpg
DSC_0202.jpg
【本丸御殿】
本丸御殿は、1848年(嘉永元年)、松平斉典の17万石時代に建てられた入母屋造りで、豪壮な大唐破風と霧除けのついた間口19間・奥行5間の大玄関・車寄せをもつもの。
36畳の大広間は、板間で玄関と区切られ、さおべり天井で奥行3間の座敷には9尺の廊下が四方を囲っている。建坪は165坪である。
当時は16棟、1025坪の規模をもっていたらしいのですが、明治に入ると廃城令で多くの建物は解体されてしまい、現在残る建物は玄関・大広間部分と家老詰所のみとなっています。
本丸御殿大広間は川越城の他には高知城にしか現存せず、全国的に見ても大変貴重な遺構です。
玄関・大広間部分は入間県県庁、入間郡公会所、更には煙草専売局淀橋支局川越分工場へと転用され、1933年(昭和8年)には川越武道奨励会の修練道場となり、名称も初雁武徳殿に変更、戦後は川越市立第二中学校(現在は初雁中学校)の校舎や屋内運動場として使用されていたが、1967年(昭和42年)、県指定有形文化財に指定されました。
家老詰所については、解体後上福岡市(現:ふじみ野市)の民家に移築されていたのを再度移築したものであり、位置は以前とは異なっているらしい。
こちらも1991年(平成3年)に県指定有形文化財に追加指定されました。そう考えると、県有形文化財にしておくにはちょいと勿体無い代物だと思えてきます。

しかも、ここ川越には江戸城の遺構が一番多く残っているのでも有名なんです。
昨日までご紹介した喜多院は、幕府の庇護が篤く1638年(寛永15年)の川越大火で焼失すると3代将軍徳川家光の命で江戸城の建物が移築されました。客殿には徳川家光誕生の間と言われている部屋があり、家光の乳母春日局の間を含む書院、庫裏も移築されている(全て国の重要文化財)。初期の江戸城の御殿建築と末期の(川越城)御殿建築を比較するうえで両者とも貴重な遺構であると言えるでしょう。
また、明日ご紹介する氷川神社には1637年(寛永14年)に家光が江戸城二の丸に建立した東照宮が移築されている。江戸城内の宗教的建造物としては現存する唯一のものでもあるのです。

そう考えると川越が小江戸と呼ばれても名前負けしない気がしますね。
次回は、先ほどお話した【氷川神社】をご紹介します。



川越観光 【喜多院】 3 五百羅漢 [寺社仏閣]

川越大師とも呼ばれる喜多院で有名なのがこの五百羅漢像。
日本三大羅漢と数えられているようです。

DSC_0122.jpg
DSC_0125.jpg
DSC_0127.jpg
DSC_0134.jpg
DSC_0133.jpg
DSC_0132.jpg
DSC_0135.jpg

「日本三大羅漢」の1つに数えられるここ喜多院の五百羅漢は、1782年から1825年の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座しています。
石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承が残る古い羅漢です。

DSC_0124.jpg
DSC_0129.jpg
DSC_0131.jpg


川越観光 まだまだ続きます。




川越観光 【喜多院】 2 [寺社仏閣]

DSC_0095.jpg
DSC_0087.jpg

喜多院の奥にあるのが庫裏。
DSC_0107.jpg
DSC_0108.jpg

生憎、中は撮影禁止です。

DSC_0114.jpg

慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。川越藩主となった老中・酒井忠利は喜多院の再興に当たりました。
慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜ったそうです。
寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するのですが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築しました。
これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けました。
4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛したそうです。

DSC_0116.jpg
DSC_0118.jpg
DSC_0121.jpg

家光誕生の間、客殿、春日局御使用の化粧の間など、見所は満載です。江戸城の一部が移築されていると考えると感慨深いものがあります。
次回はそんな喜多院にあるもうひとつの見所をご紹介します。





真夏の超ハードな京都観光!! [旅行]

京都の旅も無事終わりました。
今回伺った名所は以下の通り。


【初日】

京都駅

東本願寺

東福寺

泉涌寺

伏見稲荷大社

宇治上神社

宇治神社

平等院

萬松院

萬福寺

宝塔寺

京都駅

自転車走行距離=35.6km
歩行距離=16.4km


【2日目】

ホテル

妙心寺

平野神社

北野天満宮

二条城

上賀茂神社

鞍馬寺

鞍馬山登山

貴船神社

圓通寺

修学院離宮

曼殊院門跡

永観堂禅林寺

南禅寺

知恩院

四条駅

京都駅

自転車走行距離=50.12km
歩行距離=14.8km

移動距離合計 116.12km
(※電車等の移動は含んでいません)

でした。
いやぁ、ハードでした。電動付自転車だったから良かったものの、これがノーマルだったら・・・・死んでました(^^)
詳細は少々遅くなりますが、そのうちご紹介します。



川越観光 【喜多院】 1  [寺社仏閣]

仙波東照宮と同敷地内にあるのが次にご紹介する喜多院。川越大師としても知られています。
客殿にある徳川家光公誕生の間と書院にある春日局の化粧の間が、江戸城からそのままここに移築された事でも有名。
境内の多くの建造物が国重要文化財に指定されています。
では、そんな喜多院をご紹介していきましょう。

DSC_0095.jpg
DSC_0094.jpg
【国重要文化財:山門】
1632年に天海僧正により建立された、この喜多院で最古の建造物になります。
DSC_0087.jpg

DSC_0081.jpg
DSC_0084.jpg
【国重要文化財:鐘楼門】
1702年に建立。

DSC_0085.jpg
DSC_0086.jpg
【国重要文化財:慈眼堂】
1645年に建立されました。
慈眼大師天海を祀り、厨子に入った天海僧正の木像が安置されています。

DSC_0103.jpg
DSC_0092.jpg
【市指定有形文化財:慈恵堂】

DSC_0100.jpg
DSC_0102.jpg
【市指定有形文化財:多宝塔】

次回は残りをご紹介していきます。




川越観光 【仙波東照宮】  [寺社仏閣]

川越観光の2回目は日本三大東照宮でもある仙波東照宮をご紹介します。そもそも東照宮とは、徳川家初代将軍の徳川家康を祀る神社のことです。
じゃぁ、どうして江戸だった東京近辺ではなく全国各地に散り散りになるのか?

江戸幕府によって建立された日光東照宮や久能山東照宮(静岡県)などをはじめとして、各地の徳川・松平一門大名家、さらには譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って建立しはじめたのです。その数は全国で500社を超える程だったそうです。
当初は東照社、東照大権現などと称していたが、1645年(正保2年)に宮号の宣下があり、以降は東照宮と称するようになったそうです。明治維新以後に廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされてしまいました。
日光東照宮、久能山東照宮の二社ともう一社をもって日本三大東照宮とする東照宮は多く、仙波東照宮、鳳来山東照宮、滝山東照宮などが最後の一社として名乗っているようでもありますが、私的には日光東照宮と久能山東照宮は別格だと思います。

では、何故ここ川越に東照宮が建立されたのか。
1616年に薨去した祭神の法要は、久能山から日光山に改葬される際の1617年に、江戸幕府の「黒衣の宰相」と称された天台宗の僧侶・天海によって喜多院で行われ、後水尾天皇から東照大権現の勅額が下賜され、同年にその地に天海によって創建されたそうです。
仙波東照宮も東照宮を名乗るだけの事はある素晴らしい建造物でしたので、ご紹介していきます。



DSC_0051.jpg
DSC_0050.jpg

DSC_0052.jpg
DSC_0054.jpg
【国重要文化財:随身門】
そもそも随身門とは・・・・、と思われるでしょう。
八脚門の切妻造、とち葺形銅版葺の門で、随身門と仁王門の大きな違いは門左右に安置されているものの違いです。
仁王門は皆さんお馴染みの金剛力士像が奉られていますが、随身門は左右に随身(将軍などの長を警護する者たちの事)を安置している門の事を言います。
「誰、この弓を持った人?」とか思われた人や「あれ?仁王様は?」と思われたら、それは随身門なんだと思われたら結構です。

では境内に入って行きましょう。

DSC_0057.jpg
【国重要文化財:石鳥居】
DSC_0058.jpg

いよいよ本殿へ。

DSC_0061.jpg
DSC_0063.jpg
DSC_0064.jpg
【国重要文化財:拝殿、幣殿】
その奥にあるのが
DSC_0065.jpg
DSC_0054.jpg
【国重要文化財:本殿、唐門、瑞垣】

DSC_0067.jpg

しかも、この拝殿の中に収められている【三十六歌仙絵額】は岩佐又兵衛筆で知られ国宝。
岩槻藩主の阿部重次が奉納した【鷹絵額十二面】は狩野探幽作で知られています。

過去2回もこの地に来ておきながら、一度も訪れませんでした。
前回なんか隣接する寺院は拝観していたのに、この場所の存在すら知りませんでした。規模こそ先ほど紹介した日光東照宮や久能山東照宮には劣りますが、それでも彫刻などの装飾は素晴らしいもので見て良かったと思います(^^)
川越に行った際には、是非!!

次回はこの東照宮に隣接する寺院をご紹介します。



川越観光 【川越八幡神社】  [寺社仏閣]

川越市観光は3回目になります。
1回目は関心もなく2回目は喜多院のみに興味を持ち・・・そして今回3回目は一日時間を使って、じっくりと廻りました。

そんな川越観光をご紹介していきます。
ではでは


最初に向かったのは川越駅からほど近くにある神社【川越八幡神社】
川越八幡宮(かわごえはちまんぐう)とは、埼玉県川越市南通町の市街地に鎮座する八幡宮です。

この神社には有名な伝説が残っています。
その昔、侍に化けて八王子に住みついていた老狐の伝説です。
この老狐は民部と名乗り、話し相手欲しさに寺の小僧と仲良くなっていた。
しかしそのことが和尚に知れ、不審に思った和尚が寺に招いて宴を催した。
民部狐は家来を連れて宴に臨んだが、和尚と意気投合し家来と小僧とで相撲を取らせて楽しんだ。
翌朝、寺の境内に狐の毛が散らばっていたことから、正体を悟られてしまう。
和尚が昨夜の礼に伺うと、民部狐は正体を悟られたことを知り、川越の山中に身を隠すことを告げ、打ち身手当ての術を教えて去って行ったという話。
この伝説は「まんが日本昔ばなし」でも紹介されました。

ではそんな八幡神社をご紹介しましょう。

DSC_0013.jpg

DSC_0016.jpg
DSC_0024.jpg
DSC_0017.jpg
この八幡宮でもうひとつ有名なものが
DSC_0015.jpg
DSC_0022.jpg
この民部稲荷神社(相撲稲荷)は足腰を強くするという御利益で、箱根駅伝出場選手などに人気があります。

次回はこの八幡宮から中院に向かいます。


夏の小田原、足柄観光。 小田原城 [旅行]

小田原市内に戻って向かった先

小田原と言ったらやっぱり蒲鉾でしょ!!   ・・・違う!
小田原城でしょう。
いつもは時間潰しに西門から行っていましたが、今回は初の正面から入りました。
ここで意外な事が待っていました。


DSC_4232.jpg
小田原城の内堀でしょう。
DSC_4238.jpg
DSC_4240.jpg
DSC_4262.jpg
DSC_4275.jpg
DSC_4281.jpg
【国の史跡:小田原城址】

ここで予想外なモノが待っていました。


DSC_4283.jpg
DSC_4284.jpg
DSC_4295.jpg
何と紫陽花の群生です。
下調べで紫陽花祭りはこの撮影の前日まででした。鎌倉も近所の紫陽花ももう終わっていたので全く期待していなかったのですが、満開でした(^^)。
初めて見ました。この多くの株の紫陽花は!!
DSC_4302.jpg
DSC_4311.jpg
いやぁ、感動です。
そして天守閣へと向かいました。
DSC_4336.jpg
DSC_4347.jpg
DSC_4352.jpg
【小田原城天守閣】日本百名城
この小田原城の最大の特徴は、当時の一大勢力豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭でしょう。
八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長約9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいたそうです。
1614年(慶長19年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させています。
地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたという説も残っています。
ただ完全には撤去されず、現在も北西部を中心に遺構が残る。古地図にも存在が示されており、小田原城下と城外の境界であり続けた。明治初期における小田原町の境界も総構えでした。

当時の規模の面影はあまり残ってはいませんが、それでも十分に重厚感の残るお城でした。
次回はこのお城に鎮守する神社をご紹介します。

・・・と思ったら、そのデータがない!!!
二宮神社とかいう神社でした・・・。データが見つかり次第御紹介します(^^)


いやぁ、小田原も良き観光地です。電車で1時間もかからない場所なのでまた新たな場所を散策してみたいと思います。

次回からは、埼玉県の川越観光をご紹介します。
ではでは!!



夏の小田原、足柄観光。 最乗寺 6 [寺社仏閣]

DSC_4088.jpg
この階段を下りて更に階段を降り左へ向かうと、御真殿が出て来ます。

DSC_4108.jpg

DSC_4113.jpg

DSC_4115.jpg

DSC_4124.jpg
【御真殿】
当山守護妙覚道了大薩をご本尊に大天狗・小天狗が両脇侍として祀られている。朝晩の祈祷から日中の特別祈祷が、修行される道場。
何とここで自由参加の祈祷を行っていました。拝殿での祈祷でした。拝殿の先の幣殿は特別祈祷をされていたようで、その先の本殿で僧侶10人近くで祈祷を行っていました。
初めての体験でしたが迫力がありました。

DSC_4164.jpg
DSC_4165.jpg
茶店の前に貸傘が天日干しされていました。
DSC_4182.jpg
DSC_4184.jpg

9時半くらいから拝観してお昼前までかかりました。
これから小田原まで戻ってお昼を食べるよりと思い、このお寺の境内にある軽食処【天んぐ】でお昼をとる事に。

DSC_4224.jpg
DSC_4218.jpg
ここが大正解(^^)
美味しかった!!

これから3km近い道のりを歩いて大雄山駅に戻り、観光の舞台を小田原へと移しました。
それはまた次回。



夏の小田原、足柄観光。 最乗寺 5 [寺社仏閣]

何とこの寺院で有名なのは秋の紅葉と階段の多さなんです。
DSC_4052.jpg
DSC_3971.jpg

DSC_4058.jpg
【三面大黒殿】
三面大黒天(箱根明神・矢倉明神・飯沢明神の三明神が一体に刻まれている)を奉安している。
三面殿の前には珍らしい子供を抱えている「子育ての狛犬」が安置されている。

ここからです。

何とここには多くの階段があり
ここに来るまでに200段近くの階段あります。そしてここから・・・

DSC_0125.jpg
この階段を登り
DSC_4069.jpg
この階段を登り
DSC_4079.jpg
この階段を登ります。

ここで既に350段近くあります。そして最後に

DSC_4088.jpg
DSC_4089.jpg
DSC_4090.jpg
【奥の院】
約360段の階段が待ち構えていました。
鬱蒼とした老杉に囲れた階段を登ると、御本地十一面観世音菩薩(当山守護道了大薩の御本地)が奉安されている奥の院に辿り着きます。
大雄山のもっとも高い所に位置するが沢山の参詣者がこの階段を登られてお参りに来ていました。

DSC_4099.jpg

兎に角、最後の階段はキツかったです。
正直、知らなかったので見た瞬間笑いが出ました。
登りきった時の達成感は山形の山寺の時よりもありました。最後に護摩堂に寄って帰りましたが、それはまた次回(^^)











この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。